ふくいんのあしおと28 | ナノ





ふくいんのあしおと28

 和信が体をゆっくりと起こすと、テレビを見ていた母親が振り返った。彼女の隣には寛いでいる男がいて、彼こそが平川だと分かった。
「わのぶ君、起きた?」
 和信は毛布をたたんで母親へ渡す。
「ありがとう」
 平川がこちらへやって来る。彼は白髪混じりの髪をかきながら、何度も手の平をよれたズボンへ擦りつけた。吐息からはかすかにアルコールのにおいがする。
「わのぶ君」
 わのぶ、と呼ばれたことに嫌悪をあらわにすると、平川は笑った。
「お母さんにそっくりだね」
「えー、やめてよ。私、それトラウマなんだから」
「嫉妬? 俺にはおまえだけに決まってるだろ」
 目の前で母親が平川とキスを始める。彼の手が彼女の腰のくびれを何度か往復した。胃が痛む。和信は、小さく、「俺、帰る」と言った。
「早く仕事、見つけなさいね」
 靴を履いている時にそう言われた。
「……うん」
 大きな鞄を見ても、泊まっていけとは言われなかった。言われたところで泊まらないが、母親にとっての自分という存在を思い知らされる。携帯電話を見ると、敬也からの着信が残っている。怒っているだろう。彼にとっても自分は裏切り者だ。
 まだ十九時前だった。和信は岸本さん、と入力されたデータを出す。引き延ばしても仕方ない。会社をクビになったことを話して、敬也が両親からもらう金を回してこないうちに、平川の借金を返済しなければならない。あのパーティーのステージに立つのが一番早いと思えた。
「岸本さん? 遅れましたが、あけましておめでとうございます。いえ、あの、まだオフィスにいますか?」
 気力だけでKファイナンスのオフィスまでたどり着いた。雨は降ったり止んだりで、和信はまだ濡れていた。寒さから震えがくる。最上階のボタンを押して、ホールへ出ると、受付の女性の姿はなかった。言われていた通り、携帯電話で呼び出すと、奥から岸本が出てくる。
「よく来たね……って、ずぶ濡れじゃないか。おいで」
 重たい鞄に体が振られて倒れそうになる。だが、足元は柔らかなレッドブラウンのカーペットだ。転んでも痛くないだろうと思った。視界が反転する。
「え」
 和信は岸本に横抱きされ、運ばれていた。同じくらいの身長にもかかわらず、彼は軽々と自分を抱えている。彼の仕事部屋にあるソファにそっと下ろされ、起き上がろうとすると、手で制された。彼は一度部屋を出ると、大判のタオルをどこからか取ってくる。
「満身創痍って感じだな」
 岸本はまた部屋を出て、温かいココアを運んできた。
「鞄の中に着替えがあるなら、濡れた服は着替えたほうがいい」
 気を利かせた岸本は、丸見えだった部屋の内壁を白くして、出ていこうとする。
「あ、岸本さん!」
 呼び止めると、岸本が振り返った。
「あの、クビになったんです。来月は何とかなるけど、再来月はちゃんとお返しできないかもしれない……俺、やっぱりあのパーティーに行きます。早く返さなきゃ、俺……」
 せき込むと、また血が混じった。岸本がきれいに折りたたまれたハンカチを差し出す。彼はそれで口元を軽く押さえた後、そっと肩を抱くようにしてソファへ座らせてくれた。
「根性だけじゃどうしようもないことだってあるんだ。ほら、落ち着いて」
 ココアの缶を手に握らせてくれた岸本は、まるで和信の怯えを知っているかのように、手を振りかざすことなく、下から額へ触れた。
「……吐血するくらいだから、そうとうまいってるな」
 岸本が独白して、携帯電話を取り出す。和信はひとまず安全なところまで来たのだと確信した。彼は暴力を振るわない。失望したと言うこともない。やくざのところへ来て、安心するなんておかしいが、和信の心は不思議と温かくなった。

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