ふくいんのあしおと9 | ナノ





ふくいんのあしおと9

 母親から彼を奪うつもりはなかった。憧れを恋に変換しているだけだと思った。同性が気になるのは、父親という存在を知らないからだと結論づけた。だが、たった一回のキスで、和信はすべての言いわけを諦めた。彼とのキスは甘く、守るように体を抱き締められた時、これまでの人生の中で一番幸せだと思った。
 くちびるが離れる。幸福の余韻に浸ろうとした和信の目に入ったのは、青くなっている母親の姿だった。彼女はそう思いたかったのか、恋人だった男が無理やり和信にキスをしたのだと、彼を非難し、部屋から追い出した。彼女は店を変えて、部屋も引っ越すと言い、転校することになるが仕方ないと涙を拭った。
 本当は違うのだと言えるわけがなかった。和信も少なからず、彼を誘っていた部分があった。こっそりドライブへ行ったり、学校の帰りに会ったりしていた。父親にはならないで欲しいと泣いて見せたこともある。
「……ごめん」
 母親は事実を知っている。本当に無理やりだと分かっているなら、抱き締めてくれるはずだ。だが、彼女はおそらく自己憐憫から涙を流していた。
「どうして、謝るの?」
 刺のある口調に、和信は泣きそうになった。母親は自分が彼のことを好きだと知っている。ゲイかもしれない、なんて絶対に言えない。何も相談できない。
「俺……無防備だったよね。ごめん、今度からちゃんと気をつけるよ」
 もう今度はないよ、と母親が冷たい目でこちらを見て言った。それは二度と彼を近寄らせないという意味で言っているように聞こえるが、別の意味にも取れる言い方だった。
「わのぶ君だけは裏切らないでね」
 知っているくせに知らない振りをされた。時々、ふざけて呼ぶ「わのぶ」という読み方で名前を呼ばれた。母親の恋人を誘った悪い息子だと言われている気がした。追い出したかったのは、彼ではなく自分なのではないか、という思いがわく。
「……ごめん」
 この日以来、母親は「わのぶ」としか呼ばなくなった。おまえは私の息子じゃないと言われている気がして苦しかった。すぐに引っ越して新しい生活が始まり、彼女にも新しい恋人ができた。彼女は恋人ができるたび、紹介してくれたが、和信はしだいにそれも苦痛になった。自分の前で女を主張する母親と、時おり、彼女に似ている自分を凝視してくる男の態度に、和信は家を空けることのほうが多くなった。

 十四歳の思い出の中で封印してしまいたい記憶はもう一つある。いまだに母親に伝えられない秘密の出来事だ。引っ越しの数日前、学校の校門前で待っていた彼に頼まれて、最後に喫茶店で話をした。正直なところ、この時、和信は嬉しかった。母親の態度を詫びると、彼はそっとテーブルの下で手を重ねてきた。
 最後にもう一度だけキスをしたいと言われて、まだ人を疑うことを知らず、恋の毒で何も見えなくなってた和信は、彼の部屋へ足を踏み入れた。純粋に彼を好きになっていたのは和信だけで、彼は和信のことをそういう感情では見ていなかった。ただ、若い少年の体を引き裂きたいという欲望のために、彼は甘いキスをくれただけだった。
 もう十二年も前のことだ。だが、彼の瞳と敬也の瞳は似ていた。傷つけたい、という獰猛な欲望が色濃くにじみ、和信を動けなくしてしまう。あれも強姦だった。嫌がる自分を力で押さえつけ、彼は無理やり抱いた。すぐにでも、母親へ話して震える傷だらけの心ごと抱き締めて欲しかった。
 だが、和信は今もまだ言えない。うしろめたいからだ。そして、何より恐怖があった。あの時も、現在も、すべては罰なのかもしれないと思う。偽りの自分でいるのは、和信も同じだ。
 本当のことを話すのが怖くて、彼女をだましていることが辛くて、頼られると金を出す。息子として、母親を助けるのは当然のことだと思いながら、いつか母親から許される日を待っている。
「ごめんね、和信、辛かったね」
 そう言って抱き締めて欲しい。和信の心は十四歳の頃から穴が開いたままだ。

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