never let me go30 | ナノ





never let me go30

 包帯の巻かれた手のひらでなでた後、マリウスは包帯に侵食されていない指先でぬいぐるみへ触れていた。ナイフは中手骨を避けて貫通したが、骨間筋を傷つけていた。両手とも中指と人差指の間は斜骨折と診断され、ギプスで固定されている。
 赤に近いブラウンの髪は、まばらに伸びていたが、マリウス自身は気にする様子もなく、ぬいぐるみの触り心地を確かめるように、何度も指先を動かしていた。ピっと小さな音でアラームが鳴り、ディノはベッドへ近づく。
 マリウスはまだ体を動かすことができない。ベッドへ敷かれているマットレスは最高級のものだが、三時間おきに体勢を変えさせていた。
 最初はどんな些細なことでも、近づくだけで泣き叫んでいたマリウスだが、日々繰り返す決まりきったことに対しては反応を示さなくなった。
 クッションを入れ、右半身を下にしてやり、ディノはマリウスの病衣をまくる。それから、背中から腰を確認した。保湿クリームを取り出し、そっとマッサージを始める。
 マリウスには特定の看護師が二人ついている。世間はすでに別の事件やスキャンダルへ興味を移していたが、マリウスの指名手配が解かれたわけではない。守秘義務を必ず守ってもらうため、二人には特別手当を与えていた。
 ディノはマリウスとの生活を見越して、看護師がしていることを少しずつ覚えた。臀部の火傷は状態がひどく、布オムツを何度も交換することで清潔を保ち、蒸れないようにしている。
 背中を向けているマリウスの肩越しに、長いまつげが見えた。瞬きを繰り返す彼は、今、何を見ているのだろう。ディノは彼が左腕を伸ばし、触れているぬいぐるみを見た。プレゼントをしても喜ぶわけではない。だが、呼びかけに無反応だった彼は、ぬいぐるみやおもちゃには手を伸ばした。
 精神科医はPTSDによる幼児退行だと診断したが、マリウスが体を動かせないため、現時点ではまだ具体的な治療はしていない。言葉を発することなく、恐怖や嫌悪を感じると泣き出すさまは、確かに赤子のようだった。
 スーパーで出会ったマリウスに戻ることは見込めない。身体機能が回復しても、マリウスの心が回復する可能性は低かった。ディノは彼の足へ触れ、マッサージを施しながら、彼が連れ去られた日を思い出す。
 その日、彼は職場であらぬ疑いをかけられ、逃げ出した。その疑いが彼をどれほど傷つけたか、ディノは想像するだけで苦しくなった。
 ディノ自身、貧困と暴力の中で育ってきた。その底辺から抜け出し、自活することがどんなに大変か理解している。彼が積み上げてきたものを壊してしまった。謝罪しても、自己満足でしかない。抱き締めたいと思っても、彼にとっては恐怖でしかなく、ほほ笑んで見せても反応はない。
「マリウス」
 声をかけながら、体を元の位置に戻してやり、ストローを入れたボトルから水を飲ませる。喉元を動かし、飲み続けるマリウスを見て、もっと早く用意してやればよかったと後悔した。ストローから口を離した彼は、ゆっくりと目を閉じる。だが、すぐに周囲を確認するかのように視線を動かした。
 ディノはベッドのそばへ椅子を移動させ、マリウスを注意深く見ながら、そっと指先へ触れる。
「少し休め」
 夜は睡眠導入剤を服用しているマリウスだが、休息を必要としている身体に反して、眠りは浅く、常に物音や気配に怯えている。ディノが目を閉じて見せると、マリウスも目を閉じていた。触れたままの指先はそのままにして、ディノは静かに彼のそばへ寄り添った。


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