エウロパのうみ30 | ナノ





エウロパのうみ30

 断ったにもかかわらず、善は財布の中にタクシー代を入れていた。気づいたのは、銀行のATMでキャッシュカードを取り出した時だ。彼のマンションから出て、駅まで歩こうとしたが、途中で気分が悪くなり、タクシーをつかまえた。普段ならタクシーに乗ることはしないものの、一人で歩いていると、周囲の人間が気になり、しだいに胸が苦しくなっていった。
 タクシー代以上の金額が入っている財布から、運転手に金を渡し、時和はコンビニエンスストアの裏で降りた。駐輪場にはあの日、停めたままの自転車が置いてある。カゴにはゴミが入っていた。それを見た時、時和はとても嫌な気持ちになり、すぐにタクシーへ飛び乗って、家へ帰りたいと思った。
 自動扉の前に立つと、すぐに扉が開く。時和を見た仲間達のあいさつは途中で止まり、バックヤードからオーナー兼店長が出てきて、「外に出て」と言った。まだ中には入っていない。今まで見たことがないほど険しい表情をした彼は、「早くあっちに行って」と続けた。
「店長……あの」
「クビだから」
 冷たい声で言われて、時和は悪い予感がした。腰を曲げて、「すみませんでした」と謝罪する。
「よく来れたな。暴行事件だなんて嘘ついて、年末年始のシフトに穴あけて」
 時和が顔を上げると、軽蔑の視線が注がれる。
「あの、俺、嘘は」
「いいから、もう」
 駐輪場の扉を開けて、店長が自転車を投げつけるようにして、時和の体へ押しつける。手土産を受け取ってもらうような状態ではなく、時和はわけも分からないまま、もう一度、頭を下げるしかなかった。
 店長が立ち去ってから、時和は頭を上げて、その時にサドルに描かれた男性器と卑猥な言葉に気づいた。思わず、自転車から手を離してしまい、派手な音を立てて、自転車が倒れる。
 心臓が痛くなる。善が処理してくれると言ったが、彼らがどこの誰か、今どうしているのか知らない。アルバイト先にまで来て、何か言ったのだろうか。今この瞬間も自分のことを見ているのだろうか。時和は周囲を見回す。まだ昼過ぎで明るいのに、時和は暗闇の中へ落とされたように、手を伸ばし、つたい歩きで壁やガードレールへ触れる。
 呼吸はしだいに速くなり、ワンボックスカーが目に入るたび、その場に座り込みそうになる。時和は携帯電話を取り出した。善は今日から仕事だ。呼び出してはいけないと思うが、彼以外に電話をできる相手を思いつかない。
 ちょうどタクシーが通り、時和は携帯電話を握ったまま、手を挙げて振った。タクシーが停車する。運転手に行き先を告げる。手土産の紙袋も自転車もそのままにしてしまった。だが、今はとにかく家に帰ることが先だ。
 コンクリートの階段を上がり、早く、早く、と心の中で何度も自分へ話しかける。早く隠れないと、つかまる。時和はその思いにとらわれていた。だから、鍵を取り出そうとコートのポケットに手を入れた時、非常階段のほうで動いた黒い影に過剰な反応をしてしまった。
 悲鳴は出ず、ぎゅっと目を閉じ、その場に座り込む。
「時和」
 明達の声だ。時和は目を開けて、おそるおそる彼を見上げる。怒りをこらえている表情で、時和は彼が映像を見たのだと悟った。
「おばさん、いないだろ? 中に入れ」
 時和は震える手で鍵を開け、まっすぐ自分の部屋へ入る。すぐ目に入ったのは、明達へ渡そうとしていたクリスマスプレゼントだった。
「あき、っ」
 振り返り、自分に何が起きたのか説明しようとした。だが、明達は時和の左頬を殴った。痛みではなく、殴られたことのほうに、時和は動揺した。


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