エウロパのうみ12
だが、善のくれたキスを思い出せない。たった今、明達から受けたキスのほうが強く深く時和の心を乱す。彼女がいると分かっていても、好きという気持ちを消すことはできない。進展していくはずもないのに、たった一回のキスだけで期待している。
何でもないふりをして、時和は仕事へ戻った。いつもなら携帯電話を見ないが、制服のポケットへしのばせて、明達からメールが来ないか、何度も確認する。結局、家へ帰る時間になっても連絡はなかった。
「おかえり」
母親のあいさつへこたえ、時和はテーブルへ突っ伏す。
「大丈夫?」
「うん、ちょっと疲れただけ」
朝のニュース番組を見ながら、母親が溜息をつく。
「嫌ね、雨になりそうよ」
時和は自分の部屋へ戻り、携帯電話の充電を始めた。洗面所で顔と歯を洗い、「おやすみ」と声をかけると、母親は小さく笑い、「おやすみなさい」と返してくれた。ジーンズとシャツを脱いで、楽な格好へ着替える。
横になりながら、くちびるへ触れた。あの時のキスは誰にも見られていない。だが、あの日以来、明達の時和に対する接し方が変わり、最終的には無視されるようになった。級友達はそれを彼が時和を見限ったと取り、嫌がらせは常習となりいじめになった。
卒業までのおよそ十ヶ月の間、時和は明達に無視され続け、卒業してからも連絡は取り合っていなかった。ただ彼のページへ友達申請を出しただけだ。時和は自分のページに何も書き込んでおらず、彼のページへもコメントしない。
馬鹿みたいだと思う。明達から受けている扱いは、友達という関係ですらない。それなのに、彼からのキスが嬉しくて、無視されたことも、その結果、いじめがひどくなったことも忘れてしまえる。
時和は枕をぎゅっと抱き締めて、涙を拭い、目を閉じた。
照明のついていない『ren』の前で、時和は廉のことを待っていた。引っ越し祝いパーティーをするから、と善から招待状を渡されたものの、彼のマンションまでの道は覚えていない。昨日、廉の店へ電話をかけたら、彼から一緒に行こう、と言ってもらい、時和は少しだけ安堵した。
右手に持っている紙袋の中には、引っ越し祝いのプレゼントが入っている。何も持って来なくていいと言われたが、母親へ相談したら、衣料用洗剤を用意してくれた。着て行く服も普段着でいいと言われた。だが、さすがにジーンズにシャツでは、あのマンションじたいに入れない気がして、『ren』で飲む時と同じような格好にした。
「時和君」
待たせてごめんね、とやって来た廉は、ダークベージュのパンツとオフホワイトのシャツを見事に着こなしている。
「車、あっちに待たせてあります」
大通りのほうへ向かうと、美しく磨かれた高級車が停車していた。
「失礼します」
後部座席に座った時和が運転手へ声をかけると、「あぁ」と彼が目を細めた。助手席に座り、シートベルトをする廉が振り返る。
「俊生、木曜の常連さんで時和君。時和君、こちらは飯田俊生(イイダトシオ)さんです」
頭を下げると、飯田もよろしく、と軽く会釈をくれる。彼もおそらく善の知り合いなのだろう。マンションに着く前から、自分が場違いな気がして、時和は前の二人に気づかれないよう溜息をついた。 |