spleen72/i | ナノ


spleen72/i

 黒岩が解雇されるという話を、噂で聞いた。イギリスへ行かないとなると、これからも自分達の関係は続くのかもしれないと憂うつになる。黒岩は一切の連絡をしてこなくなっていたが、あの映像はまだ彼が持っている。
 あの映像が流出しようがしまいが、本当はどうでもよくなっていた。両親からは存在していない子どものように扱われていて、兄は遠い国にいる。明史にとっては大きな痛手ではない。だが、志音はどんなふうに思うのか考えると、それはとてつもなく怖いことだと思えた。
 寮へ向かう途中に、自分の喘ぎ声を聞いた。ちょうど一階と二階の階段の踊り場に立っている時だった。いつかこうなると分かっていた。明史は生徒玄関へ向かって、ふらふらと歩いた。はしたない声を聞きながら、志音がそばにいる時でなくてよかったと思う。
 生徒玄関でクラスメート達につかまり、大きな抵抗もできないまま、部室棟へ連れ込まれた。自分を嘲笑し、罵る言葉が響く。
 ナイフを見た瞬間、足が動いた。逃げることを考えた。三人の男達に強姦された時のことがよみがえる。扉にたどり着く前に、蹴られてバランスを崩した。ひどい言葉を言われた。その通りだと思い、抵抗するのをやめた。
 志音がプレゼントしてくれたニットベストが、ナイフによって引き裂かれていくのを見て、彼への気持ちも壊されたように思えた。スクラップ寸前の中古車、という単語が明史を責め続けた。
「……」
 遠くから人の話す声が聞こえてくる。明史は目を開く前に、指先に力を入れた。
「明史」
 風邪で寝込んだ時に、心配して様子を見にきてくれた兄の声に似ていた。明史は指先を動かす。温かい手が握り返してくれた。もう少し眠ってもいい。そう言われた気がして、明史は目を開くことなく、そのまま眠り続ける。

 誰かと学園の外へ出るのは中等部一年の時以来だった。日曜の午前中に寮長へ申出を済ませて、志音とともにバス停まで歩いた。学園じたいは郊外にあるものの、都心部まではバスで三十分程度で出られる。
 大きなショッピングモールではなく、並木道にある落ち着いたメンズブランドのショップ前で、明史は少し緊張していた。道行く人達が皆、志音を見ている。隣に並ぶのは不釣り合いな気がして、数歩うしろを歩いていたら、志音の手が伸びてきた。
 手をつなぐことはおかしいことではない。ただ若宮財閥の三男が、こんなところで手をつないでいれば、マスコミに何を書かれるか分からない。明史は手を放して欲しいと訴えた。
 あせっている明史に、志音は笑い始める。手を引っ張って放そうとしているのに、彼はぐいぐい引き寄せて、腕の中で抱き潰そうとした。じゃれ合っているように見えるのか、笑い声が聞こえる。放して欲しいとは思っているが、本当は抱き締められることが嬉しかった。
 志音は満足したのか、手をつないだ状態でショップの扉の前へ立つ。すぐに中から扉を開けてもらえた。外とは異なり、適度に涼しく保たれている店内には、週末ということもあって複数の客が入っている。
 奥からすぐに出迎えた男性が明史にも丁寧なあいさつをしてくれた。志音が学園で着るニットベストを探していると言うと、彼はすぐに奥にあるソファへ案内する。そこで明史は服の上からだったが、大まかに採寸された。志音の隣へ座り、出された紅茶を飲んでいると、彼がニットベストを手に戻ってくる。
 学園の制服シャツの色を把握しているのか、淡いブルーに合う色だけを厳選して持ってきたようだ。明史が以前、気に入っていたニットベストはホワイトだった。ついホワイトに手が出るが、志音が薄いベージュがきれいだと言う。ベージュといっても、本当に薄く、柔らかいモカと表現したほうが合っている色だった。
 男性店員も明史の前にニットベストを合わせて、ホワイトと見比べた。最終的にはおまえが決めろと言われ、明史は無意識に志音が気に入ったほうへ手を伸ばした。
 鋭いナイフの刃先が柔らかなモカを切り裂く音を聞いて、明史は嗚咽を漏らした。プレゼントする、と言った志音は、わざわざショップでラッピングをしてから渡してくれた。毎年、兄から誕生日プレゼントをもらう。それ以外でラッピングされたものをもらうのは初めてのことだった。


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