spleen60/i | ナノ


spleen60/i

「ほら」
 志音が明史の手首をつかみ、ハンカチを頬に当てる。
「まだ三十分は寝れる。目、閉じろ。色々あって、疲れたんだろ。少し休んで、メシ食って、元気出せ」
 耳に入る低く心地いい声に、明史は目を閉じた。今は大きなひずみや深い喪失を感じることはない。志音の手が髪をなでていく。こめかみに柔らかなくちびるが触れた。
「おれのこと、すき?」
 目を閉じたまま、尋ねる。
「好きだ」
 即答された言葉に、胸が温かくなる。
「どうして、もっと……」
 早く出会わなかったんだろう。明史が左手を握り締めると、志音の左手が重なる。
「明史、おまえが考えてるのと、同じこと考えてる。もっと早く出会いたかったな。だけど、あの夜、出会ったことにちゃんと意味はあるって思ってる」
 目を開くと、志音の右手が額へ触れた。
「初等部からいても、互いに顔も名前も知らないまま卒業する場合だってある。寮で鬼ごっこなんて、毎回のことだ。多少うるさくても、気にしたことなんかなかった。それでも、あの夜は何となく外に出ねぇと、って思った」
 志音は無関心だと言っていた大河の言葉を思い出した。その彼が、あの夜だけはなぜか廊下へ出てきた。窓から落とされそうになっていた明史を助けてくれた。
 明史は、兄だけではなかったと思った。自分の命をつなぎ止めた存在は、目の前にもいる。
「家の関係で色んな人間と出会う。おまえよりきれいな奴らに言い寄られることもある。容姿がいい奴らは、たいてい俺みたいに性格が悪いけど、おまえは違った」
 重なった左手が引き寄せられた。志音が指先にキスを落とす。
「おまえは思慮深くて、謙虚だ。大丈夫って言われるたび、いつももっと頼って欲しいって思ってた」
 明史は首を横に振る。自分はそんな人間ではないと言いたかった。志音は過大評価している。
「今はまだ何も言わなくていい。話したくなったら、いつでも聞く。だから、明史、俺のこと見て。無視されるのは、叩かれるより辛い」
 最後の言葉を聞いて、明史は自分が志音にしたことを思い知った。両親から存在を疎まれて、その苦しみを知っているのに、志音の言葉に返事もせず、無視をした。くちびるを結んで嗚咽をこらえていると、志音の右手がくちびるへ触れる。
「我慢するな」
 鼻水とともに涙があふれて、明史はむせび泣いた。志音がベッドへ腰かけ、明史の上半身を起こして抱き締めてくれる。鼻が詰まって、彼の香りを感じることはできなかった。だが、彼の温もりは明史を幸せな気持ちにしてくれる。
 幸せ、という言葉が思い浮かんだ瞬間、明史は怖くなった。黒岩の言っていたスクラップ寸前の車とともに、三人の男達に犯された記憶がよみがえる。体が小さく震えた。
「どうした? 寒いのか?」
 異変に気づいた志音が、背中をさすってくれる。
「……こ、こわ、い」
「何が?」
「し、しおん、おれから、はなれ、また、ひと、り、になっ、も、やっ、だ」
 あの映像が流出したら、志音はきっと離れていく。信じた人間から裏切られるのは、もう嫌だった。
「明史、一人にしない」
 背中をなでる手が優しい。明史は呼吸を整えながら、「……ほんとに?」と聞いた。
「絶対に一人にしない。何があっても、明史のそばにいる」
 明史はベッドについていた手を、ゆっくりと志音の腰へ巻きつけた。もう一度だけ、と思う。もう一度だけ信じてみて、また裏切られたら、その時は彼に見つからないように落ちていけばいい。明史は彼の心音を聞きながら、目を閉じた。


59 61(剛×将一)

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