spleen46/i | ナノ


spleen46/i

 志音の腕の中で、明史は吐き気と戦っていた。あれは強姦だったと思っている。だが、黒岩は違うと言った。明史から黒岩に抱きついて、誘ったと言った。ばらばらと記憶の欠片が飛んでくる。明史はその鋭い先に傷つきながら、泣いていた。
 階段での暴行事件が起きてから七日以上過ぎているのに、学園側から報告を受けたはずの両親は電話もメールもしてきてくれない。明史は両親のメールアドレスだけではなく、電話番号すら知らなかった。怖くて、直接聞くことができない。家に電話をすることすらできない。もうずっと、両親の声を聞いていない気がした。
「明史?」
 低い声が優しく名前を呼んだ。明史が視線を上げると、志音が頬を滑る涙を指先で拭ってくれる。
「……と、とい、はく、きもち、わる」
 自分の世界に入り込んでいた明史は、その間に志音が明良へ放った言葉を知らなかった。明良は志音の同室者である大河になだめられている。
「分かった」
 志音は制服ズボンのポケットから、きちんとしわの伸ばされたハンカチを取り出した。それを明史の手に握らせてくれるが、リネンウォーターの香りを楽しむほどの余裕はない。分かった、と言われても、明史はもう吐きそうで、すでに口の中は酸っぱい状態だった。
「……っ」
 口を開くことができない明史に気づき、志音が横抱きする。彼は明史の頭を彼自身の胸のあたりへ当てた。
「我慢するな。吐いたほうが楽になる」
 そう言いながら、志音は足早にトイレへ向かってくれる。食堂からいちばん近いトイレまでは十メートルもない。志音が気を利かせて、個室へ入れてくれた後、扉を閉めた。明史はふらついていたが、志音のハンカチを握り締め、水を流しながら吐き出す。
 涙を左手で拭い、食事中に思い出してしまったことを後悔しながら、明史は個室を出た。壁に背中をあずけていた志音が、「もう平気か?」と尋ねてくる。明史は頷き、シルバー色で統一されている手洗い場へ近づいた。
 手を出して、水で口をゆすぐ。自分のハンカチでくちびるを拭い、明史は鏡に映った志音を見た。
「若宮、ごめん。ハンカチ、汚れたから、洗って返すよ」
「あぁ」
 昼休みはあと三十分しかない。早く食堂へ戻らなければ、と明史は踵を返す。志音の手が軽く両肩を押さえた。目を閉じる暇もなかった。いくら口をゆすいだとはいえ、志音の行動にびっくりする。彼は明史のくちびるにキスを落としていた。
「あ、え……っ、な、ん」
 汚いのに、と小さくつぶやいた。志音は笑みを浮かべる。
「汚くない。そうは思わない」
 志音は手を伸ばして、明史の前髪を耳のほうへ流す。それから、親指の腹で目尻に溜まっていた涙を拭ってくれた。
「二回、振られたけど、おまえ、俺からのキス、避けてない。それって、俺にも少しはチャンスがあるってことだろ?」
 志音は嬉しそうに笑った。
「明史、俺はおまえのこと、諦めないからな」
 熱い指先が、明史の指先に絡む。志音が手を引いた。信じたらいけない、そう思うのに、絡んだ指先を握る。志音がすぐに握り返してきた。
「なぁ、俺があの冷やし中華、もらっていい? おまえ、何か消化によさそうなもの、食えよ」
 食堂に戻ると、将一達が手を振って呼んだ。目の前に並んだトウフのみそ汁とコンブのおにぎりを食べ始める。四人のクラスメート達と志音に囲まれ、明史は温かい気持ちになった。
 ポケットで震えたケータイを取り出す。水川からの呼び出しメールがきた。両親からの連絡と同様に、黒岩からの連絡もまったくない。明史は大きな不安を抱えたまま、今度こそすべてを腹へおさめた。


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