karuna9/i | ナノ


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 宿屋の主人はヤマブキの森を越えてくる旅人に優しい。トキがあっさりとした夕食を済ませると、宿屋の裏にある浴場まで案内してくれた。夜は開放していないらしいが、汗と砂にまみれ、ほつれている黒髪のトキの姿に、彼は湯浴みをすすめた。トキは一度、宿屋の二階へ上がり、あてがわれている寝室へ戻った。
 荷を解いて、中から髪を黒くする染料と肌の色を変える粉を取り出そうとしていると、ハルカが出てくる。
「もう不要だろう」
 トキは顔を上げて、ほほ笑んだ。
「そう思いますか?」
「ヤマブキの森を抜けるには七日以上かかる。今のところ追手は来ていない」
 湯浴みの前に、トキは気になっていたイズを呼び出す。薄紫色の瞳がきらきらと輝いていた。
「元気になった?」
 言葉をかけると、イズは小さく頷いた。それから、すぐにひざをつく。ハルカに対してだと思っていると、そうではないらしい。イズはトキの砂で汚れた布靴の上から足へ額をつけるように頭を下げた。
「そんなこと、しなくていい」
 トキは慌てて足を引いて、イズの肩をつかむ。
「もうすぐ君達の故郷だね。俺は常緑樹を見たことがないんだ。どんなところだろう? きっと素晴らしく……」
「美しい」
 トキの言葉を引き継ぐように、ハルカがつぶやく。
「湿地帯は朝日が昇る時、たなびくような群青と紫の霧がかかる。それが徐々に朝日に照らされ、橙色へと変化する。樹達が呼吸している森の空気は新鮮で、砂が混じっていない。私が、何を犠牲にしても守るべき森だ」
 熱のこもった言葉はまるで愛を告白しているかのように聞こえた。トキはハルカの言葉に頬を染めながら、ほんの少し寂しい気持ちを覚えた。必要だと言われたことはあるが、守ると言われたことはない。実際には契約したことで、ハルカの力によって守られていたが、辱めを受けている間、トキはいつも一人で耐えなければならなかった。
 だが、それは仕方がないことだ。ハルカの存在を知られてはいけなかった。ハルカはいつも抱き締めてくれる。キスもくれる。トキはそれだけで十分に幸せを感じられる。
「湯浴みに行きます。イズ、印に戻る?」
 イズは一瞬、困惑の色を浮かべた瞳でトキを見たが、ゆっくりと頷いた。
 浴場には小さいながら湯船があり、トキはまず入念に体を洗い、髪の染料を落としてから、湯船へと入った。月明かりに照らされている道には雑草が生えており、その雑草の緑すら貴重に思えてくる。トキは長く伸びた髪を何度もしぼり、水気を抜くと、布を巻いた。
「ご主人、ありがとうございました」
 裏口から宿屋の中へ入ると、主人は目を丸くする。
「あんた、よっぽど汚れてたんだなぁ」
 褐色の頬が薄桃色に変化しているのを見て、主人はそう言った。トキはかすかに笑みを浮かべ、リチの実はあるか、と尋ねた。木製の皿に、十個ほどのリチをもらい、二階へと上がる。
 荷物の中から、久しぶりに大陸服を取り出した。上下の分かれている衣服で、上は左側で紐を使って結ぶ。動きやすく、快適な服だが、砂漠地帯を歩くには不向きだった。風で運ばれる砂が、服の間に溜まり込むからだ。
 ベッドに寝転び、皿の中のリチの実を頬張っていると、濡れた髪を指でもてあそぶハルカが隣にいた。
「ハルカ」
 トキは体を少し起こして、果汁で濡れたくちびるをハルカのくちびるへ当てた。
「甘いですか?」
「いや、何も感じない」
 当たり前のことだが、トキは悲しくなる。ハルカが自分と同じであればいいのに、と思う。リチの実を食べて、甘い、という味覚を共有できたらどんなにいいだろう。トキはハルカの上に体をあずけて、ハルカのことを抱き締めた。背中にハルカの手の温もりがある。


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