falling down50/i | ナノ


falling down50/i

 キスが終わると、レアンドロスは、「お湯を張ってくる」と言って立ち上がる。トビアスは彼の姿が消えるのを待ち、残りのホットミルクを飲み干した。彼の部屋はバスルームの向こうにある。今、詩集と手紙を移動させるのはよくないと思った。トビアスは自分の部屋に入り、クローゼットを開ける。
 冬物の奥に夏物が見えた。トビアスは奥歯を噛み締めながら、懐かしいサマーショールへ手を伸ばす。まだ二年と経っていないはずなのに、すべてがずいぶん前のことに思えてきた。ショールへ顔を埋めたトビアスは、泣かないようにこらえた。
「ビー、着替え?」
 クローゼットの中へ入り込んでいたトビアスは、レアンドロスの声に返事をする。中から出て、彼が羽織らせてくれたカーディガンに合いそうなシャツを選んだ。
「今日は、一人で入ってもいい?」
 トビアスの言葉に、レアンドロスは首を横に振る。
「もう一人で入れると思う。だけど、まだ一緒に入って欲しい。特に今日みたいに、悪夢で目が覚めた朝は、君を一人にしたくない」
 うしろから抱き締められ、トビアスは頷く以外なかった。絶対に一人で入ると言っても、彼は中に入ってくるだろう。互いの裸はすでに見慣れたものだ。だが、精神的な部分が違う。記憶を取り戻した今は、傷痕の残る自分の体も、均整の取れた彼の体も、見れば辛くなるだけだった。

 レアンドロスは先に髪を洗ってくれる。それすら恥ずかしいのに、彼はためらいなくバスリリーへボディソープをつけた。泡立ったバスリリーを右肩から指先へと移動させる。
「レア」
「うん?」
 向かい合った状態で、彼の左手が右手を握り、彼は右手に持ったバスリリーを動かし始める。薬指にある指輪は泡にまみれても、きらきらと輝いていた。
「……自分でする」
 レアンドロスは笑みを浮かべて、バスリリーを渡してくれる。
「背中は俺が」
 レアンドロスは色違いのバスリリーを持ち、トビアスの背中をなで始める。
「ビー」
 振り返ると、レアンドロスは背中を向けていた。トビアスは彼の背中を洗う。
 シャワーを手にして、先に洗い流した後、逃げるようにしてバスタブへ入った。遅れて入ってきたレアンドロスは、いつものように足を伸ばし、トビアスをひざの上に乗せた。
「今日はベーグルにしようか?」
 レアンドロスはトビアスの濡れた髪を額から耳へかけてくれる。ひざの上とはいっても、もう少し彼のほうへ体を寄せれば、股間に当たってしまう。そんなことに羞恥を感じるのはおかしいと思ったものの、トビアスは緊張していた。
「先に出ていい?」
「あぁ」
 トビアスは彼に背中を向けたまま、バスルームから出た。バスタオルで体を拭き、髪の水気を取った後、用意していた衣服を身に着ける。手首には茶色い痕が残っており、脇腹や股の間にも傷痕が見えた。鏡に映る自分の顔を見て、トビアスは自嘲した。自分のことを美しいと思っていた。確かに、旧校舎のトイレで見た時の自分と変わらない。
 右手の薬指へ触れる。自分を傷つけないと、平静を保てない気がした。顔は変わらなくても、自分の体は名前も知らない大勢の人間によってもてあそばれた。それでも、ここにいたいという気持ちがあふれ、そのためにはどうすればいいのか考えていくと、母親と同じ道をたどることになると気づく。
 トビアスはバスルームを出て、部屋へ駆けた。胸が苦しい。胸を押さえながら、窓際に座り込む。今までと同じだった。いつか悟ったことがある。相手がレアンドロスになるだけで、することは変わらない。指輪を受け取り、結婚となれば、夜の生活も当然になる。ここへ来てから、彼が性的な接触をしてきたことはないが、我慢させていることは事実だった。
 トビアスは胸を押さえ、短く浅い呼吸を繰り返す。レアンドロスとの行為を願っていた時期もあった。だが、今はそのことを考えるだけで辛くなる。男達の罵る声が頭に響く。彼を満足させられるはずがない。涙を拭う間もなく、呼吸ができなくなる。
「どうした?」
 レアンドロスの低い声を聞いて、トビアスは返事をしたつもりだった。その後、彼のあせる声が続き、にじむ視界の先には青ざめた彼の表情が見えた。何でもない、と言った。だが、言葉は出てこない。彼はベッドまで運んでくれた。それから、袋を持ってきて、鼻と口を覆われる。横から抱き締めるように、肩へ手が回る。
「ゆっくり吐いて、吸って」
 トビアスは言われた通りに呼吸を繰り返した。


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