falling down49/i | ナノ


falling down49/i

 リビングで立ち尽くしたまま、泣いていたトビアスは、自分の名前を呼ぶ声に我へと返った。
「ビー!」
 いつもレアンドロスのほうが早い。隣にいない自分を探す声はあせっていた。トビアスは記憶が戻ったことを伝えるかどうか、ほんの一瞬迷い、ソファの下へ詩集と手紙を隠した。すぐにやって来たレアンドロスが、ほっとした声を出す。
「ビー、よかった。君のほうが早起きなんて……」
 珍しい、と言いかけて、レアンドロスの動きが止まる。彼の視線は涙で濡れた顔と手にしている包丁を行き来した。
「……トビアス?」
 トビアスは目が熱くなるのを感じた。新しい涙を拭うことなく、レアンドロスを見つめる。記憶の中の彼とほとんど変わらない。母親の狡猾な取引に応じて、何の価値もない自分を引き取った彼は、十六歳の時よりも背が伸びて、ヒゲが生えていた。
「怖い夢でも見たのか?」
 レアンドロスはそっと手を伸ばして、頬へ触れてくる。
「包丁は危ないから」
 彼の手が包丁を持つ右手を取った。トビアスは包丁を離し、涙を拭う。
「いつから起きてたんだ? 体が冷えてる」
 包丁をテーブルへ置き、トビアスを抱き締めたレアンドロスは、強く抱いた後、ソファへと座らせてくれた。彼がひざまずき、トビアスの素足へ触れる。彼の手はとても温かかった。
 レアンドロスは暖炉の火をつけ、モミの木の蝋燭も灯した後、クローゼットからカーディガンと靴下を取ってきた。トビアスにカーディガンを羽織らせ、靴下を履かせ、最後にブランケットをひざにかけると、満足そうに頷く。
「ホットミルク、いれてくるから待ってて」
 トビアスはやわらかなタオルを手渡され、レアンドロスの言葉に首を縦に振った。手際よく自分の世話を焼く彼を見ていると、ソファの下に隠したものの存在が気になってくる。記憶が戻った、と言ったほうがいい。握り締めた手へ視線を落としたトビアスは、輝いている指輪へ触れた。
 ここにいたい。
 嘘をつく必要はない。レアンドロスは記憶を取り戻しても愛する、と言っていた。ホットミルクを持ってきた彼は、暖炉の薪を調整してから、隣へ座った。
「熱いから、気をつけて」
 トビアスは一口だけ飲み、カップをテーブルの上へ置く。レアンドロスの長い指先が、ライトブラウンの癖毛をなでた。彼は存在を確かめるように髪から頬へ触れ、最後に指輪をしている手を握る。その指輪へキスをする彼のことを見ながら、トビアスは言えないと思った。
 レアンドロスが自分の生い立ちのどこまでを調べたか分からないが、あいまいにしておきたい部分が多過ぎる。記憶を忘れている間、それを取り戻したいと思っていたが、実際には忘れてしまいたいことばかりだった。彼が自分の何に魅力を感じて、ここまでしてくれるのか分からなくなる。
「ビー、それ飲み終わったら、シャワーに行こう」
 トビアスは手にしていたカップを落としそうになった。いつも一緒にシャワーを浴び、バスタブへ入ることは知っている。今朝はとてもできそうにない。トビアスは首を横に振った。
「どうした?」
 レアンドロスの表情がくもる。彼は両手で頬を包み、胸の中へ抱いてくれた。
「どんな怖い夢だったんだ?」
 指輪に触れたトビアスは、彼の心音を聞きながら、自分がひどく安堵していることに気づいた。今まで、この胸の中で守られてきた。
「レア」
 レアンドロスの手が頭をなでていく。
「すごく怖い夢だったんだ。真っ暗で何も見えないのに、追いかけられてる。何が怖いのか分からなくて、その怖いって感情を殺せば、もう逃げなくて済むと思った」
「……だから、包丁を?」
 トビアスは頷く。悪夢の話は嘘だったが、自分を消したいと思ったことは嘘ではない。怖いという感情を抱く自分を殺せば、何も感じなくなる。レアンドロスが強く抱き締め、額へくちづけをする。
「次に怖い夢を見たら、まずは俺を起こして。夢の中までは一緒にいられないかもしれない。だけど、俺は必ず君の隣にいるから」
 額から目尻へキスを受け、トビアスは目を閉じる。やわらかなくちびるが、くちびるへと触れる。ついばむような軽いキスだった。


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