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 山中は仕事へ戻ろうとした優に、フロントで待機するように言い、直広を中へ入れる。少し進むと、中はブースに分かれていた。山中は個室をもらえる役職に就いているようだ。
「どうぞ」
 ソファに座るように促されて、直広は座った。半透明のクリアファイルを手に、向かいの席へ山中が腰かける。ノックの音の後、お茶が運ばれてきた。
「ありがとうございます」
 直広が礼を言うと、運んできた男も頭を下げた。
「さっそくですが」
 山中は扉が閉まってから口を開く。彼の手には見覚えのある契約書があった。
「深田さんも気になっていると思いますので」
 契約書をこちらへ向けて、テーブルへ置き、山中が直広の署名の上を指差す。
「結論から言うと、この契約書はもう無効です」
「え?」
 無効と聞き、直広は耳を疑った。
「楼黎会も俺達と同じように表向きの会社を作っていました。さくらローン、という貸し金業者です。ほかの方々はさくらローンと契約をしていましたが、あなたの場合は楼黎会と契約しています」
 山中の指先には確かに楼黎会と記載がある。
「おそらく、新崎はあなたを囲い込んでしまおうと考えたのかもしれない。史人君を人質に、こんな契約書はいくらでも作れますから」
 直広はスタンガンを使って、無理やり署名させられた時のことを思い出し、気分が悪くなった。史人を盾にされたら、自分は従うしかない。
「少し聞いていると思いますが、さくらローンと契約をしていた方々には、当社のほうで組み直しをお願いしました」
 山中はもう一枚の契約書を取り出し、黙読する。一日二十万稼げなかった場合の利息が書かれたものだ。
「何度見ても、横暴な契約書です」
 そう言って、山中は苦笑とともに二枚の契約書をクリアファイルへ戻す。
「楼黎会との契約にしておけば、あなたがいくら返そうと、その額は記録に残らないようにしておけます。こちらで調べたところ、実際、あなたが稼いだ分はそのまま組織の利益に計上されていて、借金の返済にはあてがわれていません」
 直広は悔しさから泣きそうになった。涙を留められたのは、山中が最初に結論を言ってくれたからだ。まだ二千万円近くあると思われる借金は、帳消しになる。山中は契約書の原本が入ったクリアファイルを直広へ差し出す。
「あなたの借金の話は以上です。その契約書は焼くなり、捨てるなり、お好きにどうぞ」
 メガネの奥の瞳が理知的な輝きがあり、山中がだましたり、冗談を言ったりしているのではないと分かる。直広はクリアファイルを手にして、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
 山中は笑いながら、「いちおう、ただし付きです」と言った。直広が頭を上げると、彼は口を開く。
「今回の抗争の件、もし、警察に尋ねられるようなことがあっても、何も言わないでもらいたいというのが一つ。表向きは、うちがさくらローンを買収した話で通っています」
「はい」
 直広が返事をすると、山中は頷く。
「もう一つは、金に困ったら、ぜひうちで借りてください。法定金利内ですから」
 山中の言葉に、直広は声を立てて笑った。こんなふうに笑ったのは久しぶりだ。山中も笑みを浮かべていた。親しみやすいからか、直広はごく自然に聞いた。
「山中さんもやくざなんですか?」
「はい」
 直広は確認のため、クリアファイルを握り締める。
「あの、本当に払わなくていいんですか?」
「先ほど申し上げたように、表向きはさくらローンを買収しています。あなたはさくらローンとは契約をしていません。俺達も法律を守って仕事をしているので、ない契約をあるように見せかけるわけにはいきません」
 直広が安堵の溜息をつくと、山中がお茶をすすめてきた。緊張していた直広は、少し冷めてしまったお茶を飲む。


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