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 しばらくしゃがんだ後、視線を上げると、史人が大きな瞳でこちらを見ていた。
「なー」
 史人が言葉を発する。直広が笑みを浮かべると、今度は、「パパ」と呼んだ。健史が、史人へ、「直広がパパ。俺はタケ。おまえはアヤ」と教え込んでいた。そのせいか、史人は直広のことを、「なー」と呼んだり、「パパ」と呼んだりする。戸籍上は直広の息子ということにしたが、史人に「パパ」と呼ばれると素直に返事ができなかった。
 リンゴジュースにストローを入れ、史人へ渡す。ストローで喉を突かないよう、直広は彼のことを見守る。
「一万だけ貸して」
 直広はジーンズの裾を引きずるようにして、こちらへやって来た健史を見上げる。弟とは父親が異なる。身長も体格も性格も似ていない。だが、直広にとってはたった一人の弟だ。
「ないよ」
 苦笑したら、ごつごつした手が胸ぐらをつかんだ。健史が座っている直広を立たせる。
「嘘つくな、冷蔵庫から移動させただろ? 出せっ」
 生活費は冷蔵庫に入れて保管していた。健史にばれて使われてからは、別の場所へ隠した。胸ぐらをつかんだまま揺すられ、罵られ、最後に左頬を殴られる。殴打は日常茶飯事で、直広はその程度では動じない。生活費は直広だけではなく、史人のおむつ代や食費にもなっているからだ。
 健史が大声で怒鳴ったから、史人が泣き出した。健史の矛先が史人に変わる前に、直広はリンゴジュースを片手に泣いている史人を抱き締めにいく。
「そのガキのせいだろ! なお、前はすぐに貸してくれたのに、そいつのために貯金してんだろ!」
 背中を蹴られても、直広は史人を離さない。自分の子ではないと言って、健史は史人を認知しなかった。史人の母親は健史の子どもだと言った。辛い記憶を押し込めて、泣きじゃくる史人をあやす。
「なお、おまえはな、俺で失敗したらから、そいつに執着してるんだ」
 直広は健史を振り返る。
「高校中退までして稼いだ金、俺に使って、馬鹿みたもんな? そのガキなら、俺達が行けなかった大学まで行ってくれるって信じてんの? こんな底辺の生活、抜け出せるって思ってんのかよ?」
 史人はすでに泣きやみ、丸い瞳でこちらを見つめている。
 直広は健史と八つ、歳が離れていた。新しい父親があいさつに来て、家族になると言われ、その後、どうして再婚話が消えたのかは知らない。母親は一人で健史を出産した。
 父親という存在がなくても、直広は弟ができただけで嬉しかった。働いていた母親の代わりに、まだ赤子だった健史の世話をした。母親が体調を崩し、直広が家族を支えるようになっても、健史は大切な弟であり、自分が進めなかった道を目指して欲しいと思っていた。
「俺は、健史で失敗したとか、そんなこと思ってないよ」
 ただ、自分のように金銭的に難しいからという理由で、選べたはずの選択肢を消して欲しくはなかった。もちろん史人にも、そんな思いはさせたくはない。健史が汚れたスニーカーで窓際に追いやっていたこたつテーブルを蹴った。
「うるさい! いいから、早く金、出せっ」
「スロットに行くなら……」
「違う!」
 健史は賭け事にはまっていた。中学生の頃にはすでに、ケンカばかりしている仲間達とつるんで問題行動を起こし、警察からも注意を受けていた。
「友達に借りた金、返すだけ。なお、頼むから、日雇いの仕事、入ったらすぐ返すから」
 友達から借りた金というのも、日雇いの仕事で返すというのも嘘だと分かっていたが、直広は鞄の中から財布を取り出し、中に入っている一万円を渡した。健史がそれを取った瞬間、彼の携帯電話が鳴り始める。彼はそのまま外へ出て、話を始めた。声がだんだん遠ざかっていく。
「……あや、お昼は何にしよっか?」
 殴打された頬よりも、蹴られた背中のほうが痛い。直広は努めて明るい声で、史人へ話しかける。
「野菜がたっぷり入ったうどんにしよっか?」
 健史の時は離乳食からすべて手作りで与えていた。だが、今は毎回手作りする時間がなく、直広はレトルトタイプのものも購入している。
「今日はお休みだからね。俺が今から作るよ。あやもお手伝いする?」
「うん」
 直広は史人の頭をなでた。
「お昼食べたら、公園に行こうか? トンボが飛んでるかもしれない。コスモスももう咲いたかな」
 史人専用の椅子を台所へ運び、直広はおもちゃのまな板と包丁を用意する。プラスチック製のニンジンやトマトを二つに切り始める史人を見下ろしながら、直広は健史の言葉を思い出し、涙ぐんだ。彼で失敗したなんて、思っていない。ただ自分の思いとは裏腹に、彼がどんどん離れていくことが怖かった。



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