on your mark番外編28/i | ナノ


on your mark番外編28/i

「史人?」
 史人は自分を呼ぶ声に我に返った。トイレの扉がノックされる。
「あや、大丈夫か? 吐いた?」
 気まずくて敦士から隠れているだけなのに、彼の声は優しい。史人は覚悟を決めて、鍵を開け、扉を引いた。組織学の本で顔を覆い、目線だけを彼へと向ける。
「気分は?」
 最低、と言いたかったが、史人はただ頷いた。敦士はいつも通りだ。一瞬、あれは夢だったのではないかと考える。
「服、着替えさせてくれてありがとう」
「あぁ。俺の唾液とおまえの精液でぐちょぐちょだったからな。濡れタオルで拭いたけど、気持ち悪かったら、シャワーで流してこいよ」
 さらっと言われて、夢の可能性はまったくないことを思い知り、史人は危うく分厚い本を落とすところだった。背中を向けたまま、敦士が昼食は食べたのか、と聞いてくる。
「あ、ごめん。ジュース、こぼしたんだった」
 冷蔵庫の前にしゃがみ、拭き掃除を始めた敦士を見て、史人はテーブルへ本を置き、彼を手伝う。
「軽めがいいと思って、サンドウィッチ、作っておいた。ここは俺がやるから、食べろ」
 間近にある敦士の大きな手や横顔を見つめ、史人は赤面しながら、立ち上がった。冷蔵庫からサンドウィッチを取り出し、ソファへと移動する。いつもなら気にならない無言の時間が、重く感じる。
「あ、あーくん」
「うん?」
 キッチンから顔をのぞかせた敦士に、「パパ達、再来週のフライトにしたみたい」と言った。
「あぁ、さっき、電話あった」
「で、電話? 直パパ?」
「いや、遼パパからだけど?」
 いくら直広でも、すぐに遼へ話すとは思えず、史人は安堵の溜息をつく。敦士も昨日のことを忘れていない。そして、自分ほどには悩んでいない様子だ。
 男兄弟ばかりの友達が、いかがわしい本を見ながら、誰が最初に射精するか競ったと話していた。そういうことの延長線だと考えれば、意識する自分のほうが変ではないかと思う。
 史人はサンドウィッチを頬張り、自分好みにマスタードの量が調整されていることに笑みを浮かべた。二日酔いの日に、アラームを消して、胃腸薬が用意され、頭痛を抑える果汁百パーセントのジュースと軽食が用意されている。いつもだったら、敦士に抱きついているところだ。
 まだキッチンで作業をしている敦士を盗み見た。敦士と一緒にいかがわしい本を見たこともなければ、自慰行為を競争したこともない。
「あーくん」
 敦士がこちらへ視線を移す。
「俺達、兄弟だよね?」
 敦士の表情が一瞬、消えた。だが、彼はすぐに笑みを浮かべて、「そうだ」とこたえた。直広のアドバイス通り、きちんと本心を伝えなければ、と口を開く。
「あのさ」
 キッチンの作業台の上で、携帯電話が震え始める。敦士は手で、「ちょっと待って」という仕草を見せた。
「はい、敦士です。お疲れさまです」
 携帯電話を持って、部屋へ移動する敦士の背中を見つめる。組織のことはほとんど知らない。敦士はたまに広東語を話している。彼は遼のようになるのだろうか。もし、そうなら、今のような過ごし方はできなくなる。
 直広は家で遼を待っていた。だが、史人は外科医になりたい。自分が帰ってきたら、誰もいないなんて寂しい。史人はサンドウィッチを食べ終え、バスルームへと向かった。国家試験に合格して、研修医になった後も敦士と一緒に暮らそうと考えている自分の甘さに、くちびるを噛み締める。
「……あーくん」
 頭からシャワーを被りながら、史人は静かに泣いた。


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