giogio | ナノ



男はその日、仕事終わりに同僚たちがバルへ行くのを見送ってひとり家路についた。強いて口に出したりはしないが、誘いを断ったのは家で女が待っているからだ。何も特別なことはないけれど腕を揮って料理するから、と彼女が言ったのだ。オレンジ色のルージュが健康的な唇の色をいっそうつややかに見せて、あの日の彼女はとりわけ可愛らしかった。男は大喜びで女に合鍵を渡した。別れた妻が出て行って以来、自宅の鍵を誰かに預けたのは初めてだった。

恋人とのディナーのために喜び勇んで帰ってきた彼の足元を玄関先の淡い光が照らす。
居間は暗かったが、人の気配があった。


「あんな子供みたいな顔をしていたことが嘘みたい」

彼ではない全く別の人間に語りかけているような口ぶりだった。ぼんやりと遠景を眺めるような表情の女の口から出てきた声は彼のよく知る恋人の声なのだが、華やかでありながら淑やかだった花のような彼女のものとはとても思えなかった。
女は、テーブルメイクの済んだ食卓に腰かけていた。組んだ長い脚を床から浮かしてふらふらと揺らしている。彼女の華奢な爪先に引っかかったボルドーのスティレットがなめらかな光沢を放つ。鋭い踵だった。

「レナータ、どうしたんだ、食事にしよう。せっかく用意してくれたんだから」

努めて明るく恋人に声をかけた男の顎の下を冷たい汗が通っていく。胸を押されるような威圧に怯んでいた。レナータ──若く美しい彼の恋人は、レザージャケットの袖をぞんざいにまくると、かたわらに置いたハンドバッグから鈍い銀のシガレットケースとライターを出した。
レナータは煙草が嫌いだったはずだ。健康的で可憐だったこの女の笑顔が、愛煙家の彼に煙草をやめさせたのだ。
ライターを摩った一瞬、煙草をくわえたレナータの白い顔がぼうっと浮かび上がった。ふっくらとした唇は黒と見間違うほど濃い赤に塗られていた。
暗く静かな居間に、丸くぽつりと橙色の光が灯っている。唇のなまめかしい輪郭だけがその光に照らされて際立つ。

「ねえ、犬を殺したことがある?」

煙を吐き出した、ため息のような声。もの柔らかで一緒にいると安らぐ感じのする女だったのに、その声の柔らかさには変わりがないのに、今の言葉尻には峻厳な冷酷さがある。

「昔は犬を飼っていたの。大きい犬だったから、散歩のときは父の護衛のマルケスにリードを引いてもらってた。……優秀な番犬だったのよ」

主旨を理解できないまま知った名前が出たので男はごくりと生唾を飲み込んだ。女が煙草を花瓶に活けたガーベラの上へ差しかけると、花弁の一枚に波紋のように火が広がり、やがて燃え落ちた。それを見届け、しなやかな身体の一振りで彼女は床に足を着けて立ち上がった。

「でもそのマルケスったら賭けで大損して、負けた分を見逃してもらう代わりに、うちの警備の穴を教えてしまった」

顎の向きを斜めに反らした女の目の端に、自分が映っている。

───カタカナの娘がいない………すべての門戸を閉じろ……火をかけろ……──あの日の騒乱が男の耳元に迫ってくるようだった。彼は小さな子供の後ろ姿を追う最中、犬を撃っている。黒い被毛の獰猛なマスティフ。子供の甲高い悲鳴が倒壊する柱の奥に消えた。彼は深追いをやめた。このままでは自分の身も危うかったから。
はるかな上空から降り注ぐ託宣のように、女は続ける。

「あの子に感謝なさい。レナータをこの世に在らしめた彼に」

男がただの一度も味わったことのないレナータの身体が目の前にある。家に帰ってくるまでは抱いていたはずの、飛びついてむしゃぶりつきたいような気持ちはもはや湧いてこなかった。内にこもった陰気な熱が逃げ場を求め、すがるような言葉が口をつく。

「違う。あの子どもは屋敷の奥に逃げたんだ、屋敷は全焼で、助かるはずなかった。レナータ、こんなのはおかしい、何か悪い連中にそそのかされてるんじゃないのか?なあ、そうだろ」
───言いながら男は、完成した女の身体と、駆けていく小柄な後ろ姿に重なるところを探した。認めようもない。彼は今日このときまであの晩のことなど忘れていた。





アパートメントの戸口に華奢なシルエットが現れた。ゆっくりと喫煙を愉しんでいる女の姿を認めて中へ入ってくる。暗がりにも燦然と光を撒くような豪奢な金髪の少年は、声も立てられずにのたうっている男の足元をひょいと跨いだ。

「なんだ、呆気なかったですね」
「こんなものです」

咥え煙草を今さら苦く感じでもしたのか、女の方は消極的な返事だった。

「身体も許さずに心だけ蕩かすなんて、あなたはこわい女だ」

とろけているのは彼の身体の中だ。ナマエは埒もない反論を呑み込んだ。男の喉の奥からついにちらちらと火の尾が見え始めている。彼女は燃やしたのだ。彼らへの応報に、内側から臓腑を焼いている。
愛するものに憎まれている事実と、肉体の呵責とはどちらがどれほどの痛手になるのだろう。考え込む間にも煙草が短くなっていく。
横顔に注がれる少年の視線に応えて、ナマエは彼を見た。

「あなたはすっかり見違えましたね、ジョジョ」
「いつ頃の僕と比較してのことです?」

ナマエは愉しむほどの長さもなくなった煙草の吸いさしを、火を噴く男の口に放り入れた。彼女が問いかけに答えるまでもなく、ジョルノ・ジョバァーナは回答を知っている。静かな入り江を臨む小高い丘の教会で、友人の葬儀が行なわれたあの日から。彼が組織を掌握し、ボスとしての立場に身を置いてから。彼女が彼の愛人になってから。いくらでも彼女がそれを実感する機会はあったのだ。

「あなたの仕事は彼で終わりですね、レナータ?」
「何人、私の恋人を始末してしまわれたんです」
「どうだったかな。最後のひとりを決めていたとかだったら、謝りますよ」

ナマエ・カタカナの復讐は、感情的で要領を得ず、効率的でない順番と方法によって遂行されてきた。彼女の恋人たちはネアポリスの一市民としてこじんまりと過ごしている者の方が少なかったし、私怨混じりとは言えどもナマエが部屋の隅を掃き清めるようにネアポリス市中でその処理を進めてきたことは組織への貢献として数えてよいとジョルノは考えている。付随してくる無用の殺人を容認するのはここまでとも決めていた。

「いいえ。序列はありません。残念と言えばそうですけれど」
「ええ。あなたの気が晴れたなら、僕にとっても十分です」


男たちのひしゃげて、しょげかえった身体には目もくれず、復讐を終えてもなお、尽きせぬ炎に自ら身を焼いている。そういう女でいてくれたほうがずっとよい。ジョルノが彼女に求め含味する享楽は、今はただ、その一点に尽きた。




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