小話 | ナノ




「あんな旅の最中だったんだから少しくらい親しみが芽生えてもよさそうなものだったのに、君だけ頑なに名前で呼ばなかったね」
「……何でだろうねえ」


彼女は平和なとぼけ方をした。みんなが彼のことを承太郎、と気安く呼んでいた中で、彼女はただ空条、とぶっきらぼうに彼を呼んだ。
噂のジョジョとお近付きになりたくなかったんだよ、当時の彼女はふて腐れたようにこぼしたことがあったけれど、当のジョジョが、ジョジョという呼び名そのものを大して認知していなかったことや、女子の噂の的になっていることをうっとうしく思っていることを彼女は承知していたようで、決して本人の前でそれに類することを口にしたりはしなかった。彼女はそういう自分のことを、小賢しいでしょう、と表現して、少し困ったように笑った。
彼女と彼の関係が明確に変わった時期は当人たちにしか分からない。それでも、周りの人間からしたらある日突然、彼らは恋人同士になった。相変わらず彼女は彼のことを空条と呼び、彼もまた彼女のことをそっけなくみょうじと呼んだ。それなのにはっきりと、彼らは恋人になったと分かった。









「あのまま彼女とうまく行っちゃうだろうから、ねえそうなったら教えて。見てられない」


例えばホラー映画を見ている最中に、怖いからと言って手で両目を覆ってしまって、登場人物が悲鳴を上げる度に、何が起きたの?と聞くようなものだ。ホラー映画を見ようというとき、いつも彼女はそうする。それと同じなのだ。彼女は元恋人の現在の恋路をB級のホラーと同じように目を覆って決定的な瞬間をやり過ごして結果だけ知ろうとしている。
死人というのは暇なもので、生きている人々をはるか上から、バードウォッチングでもするみたいに眺めているくらいのことしか、今のところはすることがない。たまに生きている人の真似事をするけれど(それがつまるところ映画鑑賞や何かに繋がってくるわけだが)、基本的には、暇だ。忙しない日々に追われる彼とは裏腹の身の上というわけだ。


「それはいいけど」
「でも本当にそうなったら私泣くかも、どうしたらいい」
「現実を受け止めて、潔く泣けばいいんじゃあないかな」
「ひとりで?……本当にみじめな女だよ」


彼女は自嘲してから手元にティッシュを引き寄せて鼻をかんだ。
彼女があのとき、危機に瀕している彼を目の前にして飛び出さずにはいられなかったことを、責めることはできない。彼女は、旅の仲間たちの誰もが思っていたほどにはクールでもドライでもなかった。好きになった人を命の危機から守りたいという気持ちに動かされて、もしかしたら彼が自分でどうにかできるかもなんて考える暇もなく自分の身を犠牲にするような、彼に恋をしてしまっただけのふつうの女の子だったのだ。
みじめだ、と言いながら、彼女はきっとそれを飲み込んでまた今までと変わりない様子で笑うだろう。潔く。彼女は美徳を持っている。
旅の始めの方、彼女は承太郎のことをそれは苦手そうに避けていたけれど、彼に恋をしてしまってからそんなこともしていられなくなったようだった。彼女はそれとなく悟られないように見つめるのが上手くて、視線に気付かれたところで他愛ない会話をふるくらいのことは平気でやった。彼女はそんなところだけはしたたかに恋をした。

彼らが恋人同士だった、あの50日に満たない旅の間。たったひと夏分のアラビアンナイトを彼女はまだ大事に抱きしめている。
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