前からこの色が気に食わなかった、と鼻の根に皺を寄せて持田さんは言った。確かに彼には似合わない色だ。ペパーミントのマグカップ。淡めのかわいい色合いで、このカップを自分用にと買った元カレも、自分で買ったくせになんとなくその色を敬遠して結局ちゃんと使ったことはなかった。 持田さんがその手つかずの可愛らしいマグカップの取っ手を持つ度に、拭うことのできない違和感があったことは事実だった。その違和感で、自分には別のところにちゃんと彼氏がいるのだからと正気に返ろうとしていた部分もあったので、あえて買い替えなかっただけなのだ。それも今となっては後の祭りだ。 「感傷に浸ってますーって顔してんね」 ぱたりと食器棚の扉が閉まる。棚の木枠に手をついて背後から私の顔を覗きこんでくる持田さんの顔は心なしか不機嫌だ。 「そう見えます?」 「……そういやいっつもこんなケチな無愛想ヅラだったかもしんない」 持田さんは口元だけにやつきながらも、決まり悪そうに目をそらして言った。私が笑っているからかもしれない。私が、持田さんと暮らすことになって、この幸福が終わるのは明日だろうかいつだろうかと怯えていることを、彼はようやく知ったところだった。 それにしても、引っ越し準備の荷作り作業なんかをわざわざ手伝いに来てくれて、意外と王様は世話焼きだ。 「そういえば最初、何で声かけようと思ったんですか」 私は衣類の仕分けの最中で、持田さんはこの機会に捨てると私が決めたものをゴミ袋に押し込んでいるところだった。その持田さんが「ハァ?」とガラの悪い返事をくれる。 いかにも泥酔している見ず知らずの女を気にかけるなんてそんな徳のある行為が、知り合ってからの彼を知っていると例えそれがほんの気まぐれだったとしてもすごく意外に感じてしまうのだ。きっと知り合いだったらなおのこと放っておくんだろうなと、今ならなんとなくそんな気もする。 「………知りたい?」 「……ちょっと」 何を言いよどむのか知らないが、とにかく言いにくいことを考えていたのだろう。手を止めて、彼のパーカーの袖を引いて、わざとらしく小首を傾げて見せる。彼は顎を上げると斜め上からじっくりと私を見下ろして、満足したのか観念したのか、わざとらしくため息をついた。 「泣き顔が好みだったんだよね」 「………ドS」 「好きだろ?」 「好きですけど」 「じゃあいいじゃん」 勝ち誇ったような、いつもの不敵な笑いを浮かべると持田さんは私の唇を掠め取った。 「今は泣けなんて言わないし?」 「知ってますよ。好きな子には笑っていてほしいなんて、案外キザなんですよね」 「やっぱ泣け」 小突かれて髪をかき混ぜられながら、最近、声を立てて笑うことが増えたことに気付いた。 色々なことが、あっさりと終わったり始まったりをくり返している。泣く暇もないほど目まぐるしく。 この時間もそうやって通り過ぎていってしまうとしても、でもきっと大丈夫だ。持田さんといて、私は少し力の抜き方を覚えたのだと思う。 気付くと、唇をとがらせて何か思案気な持田さんの手が、今度はゆっくりと私の髪を梳いていた。 「なあ」 「はい?」 「名前呼んでよ」 「え」 「まさか知んねーの、俺の名前」 それ以上の抗議の代わりに、くいと毛先が引っ張られる。試すような、不機嫌な、期待の目をしている彼のことを、その名前を知らないはずはなかった。 「蓮さん」 「……蓮でいーよ、ななし」 髪を放した彼の指が、耳の輪郭を撫でた。味わうようにやさしいキスにくらくらしながら、まだ片付けも終わっていないのに、持田さんと新しいマグカップを買いに行こう、と思った。 title まばたき ×
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