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何が彼の気まぐれにきっかけを与えたのか。彼とそれまで親交の持ちようがなかった私には少しも知る由がないのであって、しかも彼は私にとって一応恩人ではあるものの赤の他人のご近所さん以上の何物でもないので、あって。




「お、今日の夕メシ、グラタン?」
「…ええ、まあ」


こんなことならあの日、飲みの誘いなんか断ってしまえばよかった。
玄関先に突っ立ったままがお気に召さなかった持田さんが当たり前のように私の横をすり抜けて、まあご丁寧に「上がるぞ」と一言。…そうですよね、あんな失態を初対面だったあなたに晒してしまった私が悪かったんですよね。悔やんでも悔やみきれません。





―なあ、あんた大丈夫?



友達と飲んだ帰り、電車を降りて駅を出るまでは良かったものの、飲みすぎたツケが歩いている内に回ってきて足元が覚束なくなり、しまいには街灯の明るさから少し外れたところにしゃがみ込んで吐き気やら何やらをやり過ごそうとしていた私に声をかけたのは、明るめの色をした猫っ毛の男性で、なんだか意地悪そうな顔の男のひとだなあ、とぼんやり思ったのだ。

それが持田さんとの初対面。私は完全に前後不覚。

その日は、友達が彼氏と別れたっていうんで開かれた残念会で集まった面子が自分の恋愛の残念な話を始めたのに乗っかって、だいぶ、自分の彼氏の悪口を言った。やさしいのか関心がないのか分からない。私から連絡をしなくなったらあっさり、ぱったりと途絶えてしまった。あの男はメールも電話も会う約束もキスもセックスもこのところは私任せにしている。もういやだ。…女が4人も5人も寄り集まって酩酊して一様にすすり泣くやら憤っているやらしていた私たちの卓はさぞ異様だったことだろう。実際は、愚痴った内容ほど悲観しなくていい、と周りの話を聞いていて思ったのが本当のところだったりして。女は周りの雰囲気に流されやすい生き物だ。
まあそんなわけでみんなと分かれて酒気が醒めるのと一緒に、自分をかわいそうがって盛り上がって泣いていた気持ちも冷めてきた頃に襲ってきた吐き気は相当なもので、声をかけてきた男のひとに大丈夫ですとか何とか言い返す前に、私は盛大に揚げ物やらアルコール類やらを胃から吐き出した。最低。
そのときの持田さんはと言えば、口に出してはっきりと「きったねえ」と毒づいてから、また「ちょっとさ」と、うつむいてむせながらわけも分からず泣いている私の肩を叩いた。


―あんたン家どこだよ



すこぶる面倒そうに。でもそのときの立ち上がるのも辛い私には、何てやさしい人なんだろう、くらいの考えしか浮かばず、のろのろと鞄から出したティッシュで口元を拭って彼に肩を借り、家まで帰りついた。着いてからもちょっと大変で、玄関の上がりかまちに座ったまま泣いたり黙ったりを繰り返している私を放置して帰ろうとした、そのときは名前も知らない持田さんのリーバイスのジーンズの裾を私は引っ張って「服が脱げない」と。言った、らしい。それは持田さんの証言だし、私は記憶をなくすような酔い方はこれまでついぞしたことがなくて、つまり言った記憶はないんだけどとにかく言った、らしい。
それで持田さんはご丁寧に私の衣服を剥ぎ取ってベッドに放り込んで、それで案外近所じゃねーかという理由でそのままうちでシャワーを浴びて私のセミダブルのベッドで一緒に寝て、翌朝には恐縮しまくる私が作った朝食を食べて、自宅に着替えに行き、どうやら彼はその日そのまま仕事に行ったようだった。その日休日だった私が、惨憺たる昨日の思い出に改めて顔を青くしたのは言うまでもなく。

以降、ときどき何の前触れもなく、まるで何かの現象のように当然みたいに、彼は我が家に襲来するようになっていた。





「お前って洋食だけは上手く作るよな」
「どうも」


取り分けたグラタンを、まだ熱いと言っているのにお構いなしに口に運んだ持田さんはすこぶる意外そうに言う。それで私がなにか言う前には2、3口グラタンを頬張ってから、サラダにフォークを突き刺して口に入れ、ジャキジャキと噛み千切りにかかっていた。


「ニュース見ていいですか」
「別にここお前ん家じゃん。俺に訊くなよ」
「…そっすね」


リモコンのボタンを押す。パッと現れた画面に、スポーツニュースのキャスターが映る。サッカーのリーグ戦がどうこう、日本代表戦が、とか。
…そういえば持田さんって、代表選手の持田と本人かってくらい似てるよなあ、と。前に思ってじろじろ眺めたのを不愉快そうにされて以来にまじまじと持田さんの横顔に目をやる。画面から「今季の持田選手は…」と何やら聞こえてくる。テレビに目を戻す。持田選手。…似ているどころかやっぱり、私の隣にいる持田さんが、持田選手だった。


「…え?」
「あ?」


グラタンのおかわりを求めて差し出されたお皿を、私はとりあえず黙って受け取った。
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