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しらふだ。窓の外はまだ夕暮れ時で、どこかで子供がはしゃぐ声すらする。この辺に子供がいるなんて知らなかったなあ。状況に反して冷静な部分が呟く。現実逃避だった。余裕があるわけじゃないのに。


「持田さん」
「なに?今さらやめないよ、俺」


やめてほしいなんて思っていない。名前を呼んで少しでも確認したい。やわらかい茶髪を手のひらでゆっくりと撫でながら、現実的な実感がひとつも伴ってこないことに戦慄している。


「あの、現実味がなくて」


持田さんが顔を上げた。じいっと目を合わせて、じろじろと睨んで、私が服の前をかき集めようとするとそれを即座に阻止して、彼は私の肌を掴んだ。息をするのも恥ずかしいのに、怪訝に眉をひそめた、苦しそうな持田さんの目から目が離せなかった。


「お前、俺のこと好きでしょ?」
「……すきです」
「俺も好きだよ、お前が。なりふり構わずいれてーってくらい」
「それはあの、ぶっちゃけすぎません?」
「リアリティあるだろ」


気が抜けて苦笑したのを、彼は鼻で笑った。なるほど、私が目の前のことから逃げているだけで、何もかも現実だ。









「で、結局何にすんの、メシ」


だらけた部屋着姿になった持田さんが、あくびをかみ殺しつつ文句を言った。うっすらと暗く沈んだ外の景色と裏腹に、寝起きみたいにぼさぼさの頭をしている。そうですねえ、と相槌を打って、1人暮らしには不釣り合いなんじゃないかというサイズの冷蔵庫を開ける。おそらく彼がぞんざいに放り入れたのであろう、ついさっきの買い物袋だけがでんと置いてある。


「冷蔵庫ほぼ空っぽじゃないですか持田さん」
「だから、買ってきたやつで何かすればいいじゃん」
「まあできなくないですけど…家の食材使っちゃいたかったのに」


私がぶつぶつ言っている後ろから、持田さんの腕が伸びてきた。この二、三時間ですっかり私のくびれを愛好する気持ちが湧いたようで、彼のあたたかい手のひらは、やんわりと身体の線を撫で上げていく。


「………お前さ」
「はい?」
「ここで俺にお帰りって言ってよ、毎日お前のメシ食いたい」
「プロポーズみたいですね」
「割とそのつもりなんだけど」


間近で見る持田さんの顔は新鮮だった。見つめてくる目に無邪気さの欠片もないのに、表情には妙に少年っぽさがあって、私はかれのこういうところに振り回されているような気がした。


「もう少し、様子見しませんか」
「一緒に暮らそうぜ、じゃあ」


それなら抵抗ないだろう、とばかりに顔いっぱいに持田さんは笑った。冷蔵庫のドアを閉めて、買い物袋の持ち手を握り締めたまま動かないでいる私に追い打ちをかけるように、持田さんはいよいよ私の身体を抱きすくめた。


「それにお前が他の男と寝てた部屋とかムカつくし。身軽になって俺んとこ転がり込めば?」


髪に頬ずりする持田さんの甘えたような声。とんでもないことだ。この話を承諾したら、これまでにはあり得なかったような頻度で、この幸福で死にかけるに違いない。


「私でよければ喜んで。……ところで持田さん、夕飯、カジキのホイル焼きでいいですか」
「……いいよ、何でも」
「あの、私すごく、幸せですから、今」
「うん。身体熱いよ、お前」

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