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ばちん、と額の骨ににぶい衝撃を加えられて私は喉をのけぞらせた。彼の思う、女にもやって大丈夫な、手持ちの技の中では一番地味で痛いデコピン。この仕打ちを憎く思えばいいのか、こんな子供じみたことをする彼を可愛らしく思えばいいのか分からず打ち震える私などそっちのけにして、持田さんは、ふん、と満足げに鼻を鳴らして笑う。…やっぱり、さすがに可愛くはない。


「なんですか」
「別に?じろじろ見られてむかついただけですケド」
「…すいません」
「いいけど」


例の一件以来、持田さんの襲来する頻度は少し上がった。最近では、夕食を振る舞うだけでなく、いっそのことその夕食の買い出しに一緒に行く有様だ。
今みたいに。


「あ、カジキ食べたい」
「お前の和食は微妙」
「じゃあ一尾でいいですね」
「おい」


近所のスーパーの鮮魚コーナーでこんなやりとりをしていると、いくらサッカー界の大エースでもさすがに所帯じみて見える。持田さんは舌打ちをして、私が持っているカゴにカジキの二尾入ったパックを放り込んだ。


「フライで食べたいですね」
「は?照り焼きだろ」
「フライです」
「あっそ」
「あ、でも酒蒸しもいい」
「どっちだよ」


こんなに平和で、いいのだろうか。心はざわついて仕方ないのに、この穏やかさに慣れつつある。まるで何の下心もなく、以前と変わらない奇妙な関係のままでいるかのようだ。むしろ、それでいいような気がしている。……持田さんとの色恋だなんて刺激が強すぎて、私には想像すらできない。私に下心があることを、持田さんに知られていて出方を見られているのだとしたらどうしよう。
後からあとから想像とも妄想ともつかない考えが巡ってまとまらない。


「…なんだよ、おい、どした?」
「え?」
「え、じゃねーって。急に黙んなよ」


そういえば持田さんといて、考えがまとまっていたことは一度もなかったような気がする。

「なんだか平和だなあと思って」

持田さんがすっと目を細めた。何か言おうとするような形で彼の唇が止まる。じっとこちらを見返してくる持田さんの方こそ黙ってしまい、ごく自然な感想として口に出しただけだったのに、そうなってようやく私はどうやら今のは失言だったと気付いた。


「あの」
「何?おまえの中ではなかったことになってんの?」


剣呑な調子で言ったにもかかわらず、持田さんは、チッと小さく舌打ちして私の持っている買い物カゴを取り上げ、ひとりですたすたとレジに向かっていった。おろおろしながらあとを追うと、持田さんはちらっとも私を見ずに会計を済ませて、サッカー台にカゴを置いた。彼はそこからは何もしないようなので、私は無言のまま、買ったものをエコバッグに詰める。横顔を窺おうと盗み見ると、彼は彼でこちらを横目に見下ろしている。


「お前はさ」

詰め終えた荷物をごく自然に片手に提げて、持田さんは険しい眉間のまま口を開いた。スーパーの両開きの自動扉が開いて、私たちが出ていくのに対して間抜けに来店時の音がした。

「このままでいいやって思ってんのか知らねーけどさ、俺はヤなんだよ。わかってんのかよ」


持田さんは、とても不愉快な様子で口角を下げた。一方の私は、ざわざわと肩や喉や背筋に違和感と、どうしようもない熱と寒気。あなたがそんな風に思っているなんて、と思ったら、たまらなく興奮してしまう。絞り出した声も緊張ですかすかだった。


「だって持田さんは、私に下心があるのを知らないから」
「は?お互い様だろ……ていうか、下心とかあったわけ」


持田さんが覗き込むようにして私と目を見合わせた。驚いたり、怪訝に思ったり、それ以上に後ろ暗いような気持ちで彼も高揚しているとその目を見て分かった。持田さんが私の手を掴んだ。引っ張られて、早足になって歩き出す。頭の上から低い声が降ってくる。


「俺ん家、行くから」

返事はできなかった。

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