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とある方面から研修でやって来た若い彼はとても気さくで明るく、機転の利く子で、いかにも使える人材が来たなという期待感がそこはかとなく先生方の間にもあるにはあった。もちろん、研修医が何でもすべてうまくやれるわけはないのだけれど、これをまたこの彼は器用にそつなくこなして見せる。小さな失敗はあるものの目立って注意すべき点もなく、彼がこのままうちの病院に就職してくれたら仕事がしやすい、と事務の面々の間でも評判がいい。そうしてやはり彼女たちの口の端にのぼるのは彼の容姿だ。愛嬌のある二重、少年のような笑顔。彼はあっという間に入院病棟の患者さんにも外来受付のお姉さま方にも人気を博した。


「ななしさんって彼氏いるんですか?」
「いません」


研修医はボールペンを手の中でくるりと回した。意外、と本当に驚いたように目を見開く彼の無邪気さが、なんとなく面倒くさい。


「意外ですか?」
「はい。だってななしさん、なんかただならない感じだし」


ただならない。


「それって」
「別に悪い意味で言ってないですよ。だってななしさん、プライベートとかまるっきり謎なんですもん」


彼は、いい意味では気さくな人だったけれど、もっと言うと馴れ馴れしい人だった。ただならない、なんてそれはいい意味で使うときの言葉では断じてない。
返す言葉をなくして書類の記入に勤しむ私の手元を見つめて、彼が少し笑う。鼻にかかった笑いは少し気に障るといえばそうだけれど、持田さんのまっすぐな悪口やひねくれた皮肉に慣れた私には何ほどのことでもない。

持田さん。…昨日のことは、本当に現実にあったことなんだろうか。きっといつか私に構うのに飽きてやって来ることもなくなるだろうと思っていたのに、都合よく私のことを好きになってくれたなんてことが本当に、現実に起きているのだろうか。


「ななしさん?」
「なんですか」


研修医の先生が怪訝にこちらを覗き込みながら、半袖の白衣から露出した、少し日に焼けた腕を伸ばす。野球をやっていたというだけあって締まった筋肉がついている。


「いや、ぼうっとしてたから、つい」


彼は、伸び気味になっている私の前髪をさりげない手つきでさらさらともてあそんでいる。


「ななしさん?…やっぱりぼうっとしてません?大丈夫ですか?」
「…先生、仕事の邪魔です。お仕事してください」


両手を上げて降参のポーズをした彼は愛想良く笑って、はい、と返事をした。軽快な足取りで去っていく若い男の後ろ姿は、どことなく私をからかってにやついている持田さんを彷彿とさせた。彼は少しだけ、雰囲気も持田さんに似ている。笑顔が子供っぽくて、それなのにどことなく口元が皮肉っぽい。


昨日。持田さんは言いたいことは言った、と言って、夕飯を食べずに帰って行った。玄関先でドアの閉まる音がしてからもしばらく私はへたり込んだまま立ち上がることができなかった。本気でそんなことを言っているならどうして今ここで放置するんですかとも思ったけれど、それが彼の誠実なのだとも思った。混乱している相手にあれ以上の何かを強要しない誠実。
私が、誠実さを受け取るに値しないことを持田さんは知らない。私がふるえていたのは、驚きやショックより何より、悦びのせいだと知らない。


「ねえななしさん、すごいエロい顔してるよ、今」
「………先生」
「言ったとたんに怖い顔しないでくださいって。…あ、このカルテ、103のなんだけどさ、しまっといてもらえません?」


研修医の手からファイルを受け取る。ここは職場だ。
あの人のことばかり考えているわけにはいかない。

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