電話をかけることもメールをすることもなくなって一週間程度。うちのアパートの前でうずくまっているその人の姿を見るのは、一カ月ぶりほどだ。無意識に握り締めたスーパーのビニール袋の取っ手ががさりと音を立て、その人の顔がゆっくりとこちらに向いた。 ふられた?―言い当てられて取り乱したあのときの自分を恥じていた私はとっさに、お久しぶりです、と愛想よく声をかけたけれど、見事に空振りし、私からの挨拶を無視した持田さんは無言で立ち上がった。 「いつ戻ってきたんですか」 「今日、さっき」 私の手からスーパーの袋を取り上げて、持田さんはさっさと歩き出した。一カ月ぶりの背中は振り向きもしない。 ![]() 振り返って、え、と聞き返した自分の声の調子にあまりにもトゲがあったので、これでは図星と認めているようなものだ、と思ったのだが、いかんせん言ってしまったあとで、それを聞いた持田さんはもうすっかり悪者の顔で笑っている。く、と喉の奥で詰まったような笑い声だった。 「何?聞こえなかった?そういう見え見えのアピールやめろっつってんの」 持田さんは立ち上がると調理台のそばにいる私の方へ来て、シンクのふちに手を置いた。 泣きたいくせに、と持田さんは笑って言う。彼は私の顔に沿って流れる髪をすくってその指先で梳いた。ゆっくりと髪の束を一房、耳にかけられる。あらわになる顔の輪郭をくすぐるように同じ指先が撫でていく。 「全然平気ですーみたいな顔してさ。結局ふられたのがしんどいんだろ」 「そんなの」 「泣いたら惨めだもんな。長いこと付き合って惰性だっつっても一応彼氏だったもんな」 「やめてください」 持田さんの指は顎をなぞってうつむこうとした私の顔を上げさせた。彼の言うとおり、今まさに泣いてしまいそうだった。精一杯剣呑な声を出すのにそれもなんだか彼の目に見られていると何の意味もないような気がした。笑っているのに、眉間にひどく険しいしわを刻んだ持田さんのおそろしい表情が性懲りもない見え見えの嘘を責めている。 「何も言わなかったんだろ、お前。いくらでも不満あったくせに」 目を泳がす私の目の前に、焦点が合わないくらい近くに、持田さんは自分の顔を持ってきて私の目を見た。どんよりとして覇気がないのに何もかも見ているとでも言いたげな、今にも呑まれてしまいそうな目。 みっともない別れ方をしたくないなんていう自尊心のためだけに、聞き分けのいいふりをしたのでは、確かになかった。何だかんだ言っても彼との間に穏やかで幸せな時間があったのも本当のことで、他の人に惹かれている罪悪感やこれまでの平穏や凡庸を手放したくない気持ちがどこかにあった。納得したつもりで、内心で裏切っていたのは自分の方だと分かっていて、それでも履き潰した靴みたいにあっさり捨てられたことに傷ついている。 勝手な言い種だったし、ここで持田さんの前で泣いたってそんなのは卑怯な逃げだった。 「なに、その顔。ナマイキ」 「見ないでください」 「やだね」 「持田さん」 口から出た声は思ったよりずっとかすれていた。でも今さらやり直しも利かない。ただお前が何もかも悪いんだろと本当のことを言われるのが嫌で、私は持田さんの胸を押し返した自分の手元を見つめた。 「お前さ」 「はい」 「俺の目、見てみ」 うなじを掴まれて、見てみろなんていう促す体よりよっぽど乱暴に顔を引き寄せられた。それで2秒もしない内に持田さんは私の口を塞いでしまった。見開いた目と、反応を窺うように眇められた目とが、密着した身体の間にぽっかりとできた空間でぶつかり合う。 私の身体は彼の腕の間にぴたりと収まって、何の違和感もなかった。この人とは初めてしたはずのキスも。 どうしよう。 心臓が物理的な法則やら常識やら骨や肉や色んなものを無視して飛び出しそうで、なんだか泣きそうで、私はしきりにまばたきを繰り返した。何か衝撃波でも食らったみたいに一瞬、ドッ、と音を立てた心臓が、とどめを待っているみたいに忙しなく動く。 私はこの間彼氏と別れたばっかりで、じゃあそういうことで持田さんと、なんて尻の軽いことはできないなあと考えていたところで、だからもう少し時間置いて仕切りなおそうとかもういっそこのままこの人にただただ片思いしてるだけでもいいかなとか。 「いい加減つけ込むけどさ、怒んなよ」 そういう良識ぶったいろいろなことを、持田さんはあっさりと奪っていってしまった。 Title/深爪 ×
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