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私が彼氏と別れるとか別れないとかを持田さんが気にしている様子はなかった。一度はまるで悪魔みたいに別れちゃえよとそそのかしたこともきっと覚えてなどいないだろう。そういう人だと思う。基本的に他人には興味がないというか。
結局持田さんに興味を持ってもらわなくても、私の中でひとつ決意は固まった。



「で?」
「…別れた」
「マジで」

答える前に梅酒のロックを一口。芦立は、私が次に何を言うか分かっているみたいにあっさりと、ああそう、とだけ。

「わたしはななしの彼氏好きじゃなかったし、別にいいんだけどね」

芦立は、確かに彼が好きではないどころか、どちらかと言えば嫌っていたと思う。理由は知らない。私からは聞かなかったし、彼女も進んで言いたくはなさそうだった。

「でも何か、思ったよりあっさりだったね」
「…聞いてよ。あの人、仕事と恋愛を両立するなんて器用なことやっぱり俺にはできないとか女子みたいなこと言い出しちゃって。で、あっさり」
「は?え、なに、逆にフラれた?」
「そうなりますねえ」
「ウケる。…まあいいんじゃない、別れたい理由聞かれなかったんでしょ?」

芦立が鼻で笑って言った「ウケる」が少し持田さんに似ている。確かに聞かれなかったし、正直彼は持田さんの存在には気付いていなかったとも思う。
元々限界だったというか、彼にとってみれば無用な荷物が多かったくらいのものだったのかもしれない。真剣にお互いのことを好きだった時期も確かにあったけどいつの間にか惰性になっていっていたのは私もちゃんと感じていたことではあったし、なんだか今回のことですっかり納得してしまった。もちろん、彼の方から言い出してくれたことで憎まれ役にならずに済んだことに安堵する程度に私は卑怯者だった。本当に裏切っていたのは私だったのに、彼を女々しいと言って憚らない私の厚顔無恥を、そして目の前の彼女は責めなかった。

…持田さんは最近、リーグ戦の何たらかんたらで遠征に行っているらしくめったに私の家には来なくなった。アドレスを交換したのは彼がその遠征に行く直前にやっと、という感じだった。昨日もたった一言、飯がまずいとメールが来た。出先のご飯がおいしくないということだろうな、と思ったけれど私にはどうすることもできないので、がんばってください、と返した。
いくら彼のことを好きだと思ってしまったとは言え、彼氏と別れたんでじゃあ持田さんと、などということは私にはできず、持田さんには私が独り身になったことをまだ言えずにいた。気持ちの整理をするのに、持田さんが気安くうちに来ない状況は有り難くもあった。

「で、付き合うの?あの俺様イケメンと」

え、と。呆気にとられた私に向かって芦立は平然と、てっきりそうなのかと、と言って、いつものように流れるような華麗な所作で煙草に火を点けた。





―次は出ろ

店を出て家まで歩きがてら取り出した携帯の留守電には聞きなれた声でそれだけ録音してあった。アルコールで浮ついた頭では、次っていつだろうなどと考えている。それとは別のかろうじて冷静らしい一部分が、あのひとの声なんか今聞いて大丈夫なの、と自分を叱咤する。
いつだかの水曜日に持田さんと食事をしたことは、芦立にも言えなかった。私はあの日ワインで酔った頭の中でずっと、そのとき目の前にいた男を好きだと思う気持ちと戦っていた。ついに勝てなかった。
手の中の携帯電話がけたたましく鳴りながら震え始めたのを、私はむしろ心待ちにしていたのだと思う。ディスプレイを覗き、見透かすようなタイミングで電話をかけてきた男の名前を眺める。きっと私が暇だろうと思ってこういう時間帯を選んでかけたのだろうな、と私は電波の向こうの王様のことを考える。
通話ボタンを押す。耳に当てた受話部分から、数週間ぶりの持田さんの、しゃべるのも面倒くさがるような声が聞こえてきた。

―1回で出ねーとか、マジありえない

第一声が、かじかんだような頼りなげな声だったのが彼らしくもなくて、私は少し笑った。持田さんは不機嫌そうに声を低めて、なに笑ってんの、と言っている途中でくしゃみをした。どうやらこの寒いのに外で電話をかけているらしい。

「どうしたんですか、急に電話なんて」
―メールで言ったじゃん。メシまずいんだよ

そうでしたね、と返した私に持田さんは、そうなんだよね、とだけ言ってすこし黙った。
あの持田さんがわざわざ電話をかけてきて私が出なかったからってかけ直して、それなのに話すことなんて実はそのくらいだなんていうところが、なんだかたまらなく嬉しい。

「持田さん」
―なんだよ
「いつ帰ってきます?」
―……俺に会いたいわけ?
「なんでそうなるんですか」
―だってお前、泣きそうじゃん。意味わかんねー

混乱して黙り込んだ私を相手に、持田さんは不敵な、少し小ばかにしたような笑いをこぼした。

―ふられた?
「…持田さんに関係ないです」

私の声がふるえたのを面白がるように持田さんはまたしても鼻で笑い、図星だ、と言った。




title/深爪
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