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「ほら、行くぞ」


約束の水曜日。
持田さんに手を引かれて、正直どこへ行くのかも分からないままついていく。カジュアルなスーツ姿の彼の肩越しに、車が見える。持田さんの車だろうか。助手席のドアを開けてくれるレディファーストをまさかの持田さんから受けて私は恐縮しながら大人しくシートに押し込まれた。
運転席に乗り込んだ持田さんが、戸惑って固まっている私を横目に見て、シートベルト、と一言だけ促した。私は頷く。車を発進させた持田さんの横顔は、以前芦立と飲んだときに言ったような「上の中」どころじゃなく様になっている。運転が巧い男の人はかっこいい、と私が熱弁を揮ったときに「その感覚、全然わからないよ」と適当に流した彼氏の声が耳の奥に蘇った。


「後ろの箱さ、お前の着替えだから。途中で美容室寄るから行って、ついでにそれ着てきて」
「持田さん」
「何ですか急に、とか言うなよ」


私が黙り込んだのを見て持田さんはまるで、してやったりとばかりに口元をにんまりと曲げた。
どこへ行くんですか、と聞いても答えてくれないような気がしたので、素直にその一言はしまっておくことにした。
…この間あんなことがあったというのに何でもない顔をして私を連れ出した持田さんはそれでも今日、あの話を蒸し返す気はないようで、私はそれに安心していた。なんとも小ずるい女だった。



着いた途端に私を担当するという美容師に囲まれ、フルメイクとネイルと髪のセットを一気に3人がかりで済ませてもらい、私は奥の個室で白い箱を開けた。手を入れて引き当てたのはカジュアルドレスで、箱の中にはさらにもうひとつ箱が入っていて、それにはドレスに合わせた靴が入っていた。こんな難易度の高いことをさらっとやってのけるなんて付き合ってもないのにあの人はいったい何がしたいんだ。なんだか急に頭が痛くなってきて、髪のセットをやってくれた美容師の女性が手伝いましょうかとにこやかに申し出てくれたのをかろうじて断った。
サロンを出る頃には私は全身磨かれたようにぴかぴかで、待合スペースで優雅にサービスのコーヒーをすすっていた持田さんは私の姿を見ると満足げに笑った。差し出された手にそのままエスコートされて、妙な緊張でいっぱいだ。


「かわいいじゃん」


王様の顔で持田さんが笑う。私が戸惑いながらお礼を言おうとしたのを遮って、まだ言わなくていいよ、と奇妙にやさしい声音で言う。明日、槍が降ってきたりして直撃して死ぬのか。それとも。


「ほら、乗れよ」


助手席のドアが、王様の手で私のために開かれる。他人の手で磨かれ抜いたあとで気疲れしていたのだろうか。なんだか軽いめまいを覚えた。



海沿いに車を走らせた持田さんは、いとも簡単に優雅に、海の見える瀟洒なレストランに私を導き入れた。ドレスコードがあるから着替えさせたのか、と頭の冷静な部分で推測する。物腰の柔らかいボーイに名前を告げたあと、持田さんは私の手を引いてずかずかとまるで主の帰還みたいに店を横切り、個室の扉の前で待ち受けていた別のボーイがその扉を開けるのを、つまらなそうに見た。私が居心地悪くさまよわせた視線は、さわやかな顔立ちのボーイの伏せたまつげの上を回遊する。
着席してからも持田さんは独壇場で、私は完璧にセットされた髪に軽くふれながら、彼が流暢に(あるいはごく適当に)コース料理を頼んでいるのを聞いていた。ロゼワインの入ったグラスが目の前に置かれるまで、私は個室の大きな窓いっぱいに広がる日暮れの海を眺めていた。
ボーイが退出すると、持田さんが軽くグラスを持ち上げた。つられて私もグラスを持つと彼は何が面白かったのか、ぶは、と噴き出して言った。


「乾杯する?」
「…何にですか」
「それ俺に訊く?知らねーよ。うける」


矢継ぎ早に悪態じみた口調で続けた持田さんは、相変わらず困惑して固まり気味の私が手にしたグラスに勝手に自分のグラスをぶつけて乾杯の形にした。グラスは軽快な音を立てた。



「持田さん」


ワインは口当たりがよくて美味しい。運ばれてきた料理も。アルコールがやさしく私の頭を懐柔して、口を滑らせるのは決まってこんなときだ。


「どうして連れてきてくれたんですか」


彼は眉を片方持ち上げて考えるようなそぶりを見せたあと、事もなげに言った。


「いつもの礼」
「…お礼?」
「飯たかってばっかだったし?」


たまには甘やかしてやるよ、と持田さんは笑う。ふわりと胸の底から何か浮き上がり、とたんにそれは私の鎖骨の下を塞いでしまった。
―認めろよ
持田さんのあの日の声が、不思議な強制力を持って耳の奥で響いている。
息が苦しい。あなたに名前を呼ばれるだけで、あなたが子供のように笑うだけで。


…いい加減、私もちゃんと気付いていた。
このひとが好きだ。惰性にしがみついて何度も悲しい思いをするよりも、このひとに不毛な片思いをして苦しむ方がいいだなんてとち狂ったことを考えるくらいに。

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