「持田さん」 自分の声があまりにも弱々しくて驚いてしまう。時計は取り上げられた格好のまま私はまだ間抜けに彼を見上げている。持田さんの顔により深く影がかかる。逆光。自分が息を呑んだ音が、やけに大きく聞こえておそらく彼にもそれは聞こえて、ふれあう直前だった唇が静止した。 「…お前今日、部屋着じゃねーのな」 「何ですか今さら」 「彼氏来たから?」 持田さんはあっさりと私から距離を取ると、時計をしげしげと眺めながら今度こそこたつに滑り込んだ。私は火を止めていた鍋の存在を思い出して、コンロの方に向き直った。さっきといい、持田さんはやけに「彼氏」につっかかる。あんな見下したように笑うくせに気になるらしい。 「まあ、そんな感じです」 午前中に買い物に出たせいもあるけど。エビチリと中華スープとサラダを盛り付けて卓に並べる。ご飯は盛りすぎると怒られるので加減した。…彼氏より、この人に食事をお出しする方に慣れてきている。これだから、従者に世話されて当然の王様なんか。自分が従者だとは思いたくないけど、実際そんなようなものだっていうのが悲しい。 いただきます、の一言は律儀に言う持田さんがさっさと食事に箸をつける。 「お前の彼氏はさ、これ食って何も言わないわけ?」 「そうですね。文句言わない代わりに褒めもしないです」 「…スープは美味いよ」 持田さんはスープの皿を持っている手元を見てうつむいたまま、平坦に言った。洋食以外で褒めてくれるなんて珍しい。さっき彼氏と一緒に夕飯を食べ終えてしまったので淹れた食後のコーヒーを一口飲んで、私はもごもごとありがとうございます、とだけ言うことに成功した。 「だからなに、礼とか」 彼は呆れたように笑った。だって褒められたら嬉しいです。歯に衣着せないタイプの人に言われたらなおさら。返す言葉をどう短くまとめようか考えている内に、持田さんはこの流れに飽きたようでエビチリを口に運んだ。もっと辛い方が好みとかなんとか好き勝手に言っている。 「あ、俺にもあとでコーヒー」 「はいはい」 私がリモコンを取ってテレビを点けると、持田さんも黙って食事に集中し始めた。 確かに持田さんの彼女は美人で巨乳で美脚かもしれないが、あの凝ったネイルを施した指先ではきっと料理なんかしないだろう。自分のメンテとか仕事で忙しそうだしいかにも縁遠そうだ。だから持田さんがうちにご飯をたかりにくるのかなあ。彼女が作ってくれないから。 ふと流れ出したCMに、あのフライデーの一枚から飛び出したように持田さんの彼女が笑顔を見せた。あまりのタイミングにうろたえた私はとっさにチャンネルを替えた。 「見てたんじゃねーの?ニュース」 「…天気予報はいいかなって」 あっそ、と興味のなさそうな返事が返ってきて、私ははい、とだけ応えた。 持田さんはさんざん私の彼氏のことをいじってるんだから、開き直ってこっちからもこの人持田さんの彼女なんでしたっけ、くらい言ってもいいような気があとからしてきたけど遅すぎた。それに持田さんの口から彼女の話なんか別に聞きたくなかった。興味はあるけど、どうでもよかった。 「なあ、ななし」 急に神妙な顔をして持田さんは私を見た。私はじゅうたんの上で静かにバイブレーションを起こしている携帯を無視した。 「お前の彼氏より、俺のがイイ男だよ」 「持田さんの彼女が、私よりイイ女なのと同じですね」 言う前から、言わない方がいいと分かっていたことを私は、しまった、と思いながら口に出した。思ったら言わずにはいられなかった。そんなことを私に向かって言うような動機が彼にあるはずはなかった。あるのだとしても、言う権利はなかった。女の願望のすべてを叶えた女をあなたは持っている。 「機嫌悪くね、今日」 面倒くさそうに眉間を険しくして、持田さんはいつもの仏頂面よりも不機嫌そうな顔をした。どっちが機嫌を悪くしているやら。 「そういうわけじゃ」 「じゃあ何でいつもみたいに流さないわけ」 「え」 「そうですね、とか何とかいつもなら流すんじゃねーの」 そんなことを言って、あなたはじゃあいったい私にどうしてほしいんですか。口から出すのをためらった彼を責めるような言葉を見透かしたように、持田さんが言った。 「認めろよ」 何を、と。聞けずにふるえている私を置いて、いつの間にか食事を終えた持田さんが立ち上がる。彼はご馳走さん、とそんなところだけ律儀に言い残していく。 …認めなければいけない後ろめたいことがあるのを、本当はちゃんと分かっている。 |