![]() あまり遅く帰れない、と彼が言ったとき、なんだか不倫中の男が妻のところに帰るような言い種だなと思ってしまった。もちろん単に明日も早いからというだけで、彼は私の作った夕飯を食べてから帰って行った。きっと前なら、無理をしてでも泊まっていっただろうと思わないではないけれど、私もわがままを言って引き留めるような気持ちにはなれなかった。 なんとなく今までのようにアパートの下まで見送って、彼が曲がり角に消えてしまうまでそこに立っていた。曲がりきる前、彼がこちらに手を振る。振り返してため息をつくと、角から彼と入れ替わりに人が現れた。 「あれ、何してんのお前」 「持田さん」 いつものように何でもないような顔でやって来た持田さんと、ついさっきそこを曲がっていった彼が何も知らずにすれ違ったのかと思うとぞっとする。 浮気する人はこんなスリルに身を置いてるんだろうか。 ふと浮かんだ考えにまたぞっとする。芦立が言ったのはこういうことだったんだろうか。惰性化した関係の男と普通じゃありえない刺激をくれる男。…どこのトレンディドラマだ。 「腹減ったんだけど」 「今日、エビチリですけど」 「…お前の中華適当なんだよなー」 「文句言うなら食べなくていいですよ」 「…さっきの」 「はい?」 持田さんがアパートの階段を上がる足を止めた。私もつられて止まる。さっきの。言われて出てくるのはさっき私の家にいた彼だけだ。私が見送って、持田さんは彼とすれ違った。 「あれが彼氏?」 「…一応」 「こないだ居酒屋で会ったお姉さんの方がイケメンだな」 「知ってます」 「背も低いし」 「知ってます」 「でも付き合ってんだ?」 階段の同じ段に並んで立って、私は持田さんを見上げるのをやめた。確かに芦立の方が気配り上手で優しいし顔が整ってるし背も高い。でもだからって芦立は女だし。当然、持田さんのスペックで見たら、彼なんか草食をこじらせたくらいが特徴のちょっと残念な一般男性以外の何物でもないだろう。でも、そういう彼が懸命に私なんかを愛してくれていることに私がどれだけ救われているかなんて、誰にも分からないことなのであって。 誰もが羨む彼女がいるようなハイスペックのフットボーラ―に、私と彼のようなカップルの素朴さなど不可解であっても仕様がないのだ。たぶん。諦めに似た気持ちでため息をつく。私が先に立ってまた階段を上る。持田さんも、何も言わずに歩き出した。 ドアの前で立ち止まって鍵を取り出して鍵穴に差し込む。その手元を眺めている持田さんを盗み見ると目が合ってしまった。 「さっきの話ですけど」 「なに」 「…すいません、何でもないです」 例えばどんなに私にとって理想的な男が現れても、それが現れただけならきっと私は見向きもしないだろう。私は彼が好きだと自信を持って言えるし、でも、だからってそのことを持田さんに言ってどうする。さっきのあれが単なる冗談でも、心底ばかにされたんだとしても、苦しい抗弁になるだけだった。鍵をカバンにしまう手がふるえた。今初めて、華やかな生活の中の人間に私の凡庸を踏み荒らされていると感じた。そんなに不愉快に思ったことのない持田さんの刺さるように率直な言葉が、今日はなぜだか素直に刺さってしまう。 いつものように部屋へ入って、私は王様のためにエビチリとスープを温め直しにキッチン台に。その後ろでこたつへ滑り込もうとしていた持田さんが、怪訝な声を上げる。そういえば、彼氏が興味本位に覗き込んでいたフライデーが置きっぱなしだった、ような。 振り返らないまま背筋に変に冷たいものが伝っていくような感じに身震いする。怒るだろうか。 「お前の彼氏、時計置いてってる」 「…え?」 拍子抜けして振り返ると、持田さんが取り上げたそれは確かに腕時計嫌いの彼が珍しくちゃんと着けていた、最近買ったばかりという腕時計だった。結局夕飯を食べるのに時計が邪魔だと文句を垂れて外して、そのまま置いていてしまったのだろう。 「たぶん忘れたことにも気付いてないですね、彼」 「ふーん」 受け取ろうとした私の手を、持田さんが避けた。見上げると、見下ろしてくる大きな両目が何かを探るように私の顔の上を泳いだ。 「持田さん?」 時計が蛍光灯の真下で光った。 持田さんは息のかかる距離で黙っている。 |