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最近、彼に対してドキドキする、とみずほが言ったのを、私は最初話半分以下でしか聞かず、というよりはお昼ご飯を口に運ぶのに夢中だった。頭の中で今し方彼女の言ったことを反芻し並べ替え口の中の食べ物を咀嚼し終えてからようやく「まぁじでぇ?」と間抜けに声を上げた私の、ちゃかす気でつり上がった口角を見もせずに彼女は両手で頭を抱えた。

「うわぁもう、その顔やめてよー。ちょっと悔しいんだからさー」
「いやいやちょっと待ってよ、何があってドキドキしちゃったのか教えてよ。あいつはねーなーとか言ってたじゃん」
「いや本当もう…なんていうか…」

友達の恋愛未満の話を物見高く聞いておきながら、私はどことなく優越感を持っていたのだと思うのだ。彼女のときめきに比例する相手の気持ちがあるのだろうか、と考えてしまう。
仙道彰というバスケ部の2年生エースのことを、彼女はマネージャーの立場から見て、選手として無二であることを認めた上でふだんの生活の中でははなはだどうしようもない男だ、と評していた。今までは。いくら顔がよくたって、分け隔てなく優しくたって、時間にルーズで気分で人を振り回すような彼女なんか作ったってバスケットボールの次の次の次にもしないようなそれでいて自分がモテると知ってる男は、恋愛の対象にはならない、と。それはすごい言い様だったのだ。
全体にルーズそうな雰囲気を持っている、そしてなぜか持ち前の愛嬌でその手のことを許されている彼のことは、私も少し知っている。彼女がグチるからであるし、同じクラスの魚住のところにときどき彼がやってくるからでもある。

彼がふとした瞬間に優しかったり顔が近かったり、思わせぶりなことを言うからいけないんだ、と彼女は言う。
そうだね、その通り。ここしばらくマネージャー業に専念するあまり彼氏なんかいるいらない以前の問題だった彼女がそうやってむずがゆい話をしているのをちゃかすのは楽しい。そ知らぬ顔で応援するくらい何でもないのだから私は性格が悪かった。

「前から結構空いたもんね。どうすんの?いっちゃうの?」
「えええ、まだ全然そんなんじゃないし、ていうか言っちゃって今後気まずくなんのやだ…」
「気まずくなんの前提なの?」

仙道、今は彼女いないんでしょ、と言いそうになるのをこらえてへらへらしている私の食がもりもり進んでいるのを、一方の恋煩いの彼女は難しい顔で眺めている。
みずほの言いたいことはわかっている。告白して成就しなかった場合、告白はうまくいったけどすぐ別れる羽目になった場合。あんたは知らないから簡単に言うけど、という、彼女の言外に雄弁な恨み言はわかっている。

「だって仙道、あんなこと言って絶対好きな子いるもん」

あんなことってなに、とは聞かなかった。みずほがその一言によって、私と彼女との差別化を図っていると感じたからだ。あなたは彼のことを知らないだろうけど、ということだ。

彼女は私と彼が一度も話したことがないと思っているけれど、困ったことに私たちは軽口を叩き合う程度の顔見知りなのだった。



「あ、先輩のお友達の」
初めて話しかけられたとき、まず彼はそう言って不自然に言葉を切った。
名乗り合ったことがないのだから名前を知っているはずはないなと思って私は簡単に会釈をした。目が合って初めて私は彼の顔をまじまじと見た。たれ目なんだな、というくらいの感想の裏で、あいつ顔だけは本当にいいから、と言ってくれぐれも引っかかるなよと念を押していたみずほのことを思い出していたら、すれ違おうとした私を引き留めるように彼は言った。
「名前さん」
何がどうきっかけになったかと言えばそれだけだった。
彼は先輩マネージャーとつかず離れずしかししょっちゅう一緒にいる私のことを知っていた。私も学校中の有名人のことは知っていた。
彼は、みずほが私のことを下の名前でしか呼ばないので私の名字を知らず、私のことを妙に慕わしげに名前さんと呼ぶ。
………私は彼のそのすっと素直に通った鼻梁や白い肌の下の喉仏や優しげに垂れ下がった目元、縦に長い割に均整のとれた身体の筋肉を、見つめてごくりと喉を鳴らしてしまう。いつもそうだ。さわりたい、と、ふしだらな欲が動く。



そういう意味では仙道彰を恋愛の対象として見なしてこなかった彼女の戸惑いは理解できた。私は彼とは面識がなかったのにすっかりそうやって彼のことを見てしまっている。
モテる男は苦手だなあと思っていた私でさえ無理だった。元々が面食いのみずほがよくも2年、落ちずにきたものだ。
みずほが、仙道彰を。
その実感がじわじわと身体の管の中を通っていく。でも、だからといってそれは、私が仙道彰への欲を捨てる理由にはならなかった。





放課後、慌ただしく部活に向かったみずほを見送ってからのろのろと教室を出た私は、偶然、階段を上がってくる仙道彰と遭遇した。
あ、と彼がとぼけた声を上げる。踊場で止まって、どうも、と言った私からちょっと目をそらした仙道彰は苦笑いしてすいません、と急に言った。

「え、なに急に」
「いや、かなりいいアングルで見上げちゃったから」
「アングルって」

すぐに彼の言わんとするところがわかって私も苦笑いになる。一段、二段、とゆっくり階段を上がって来ながら、彼は遠慮するように顔をうつむきがちにして、甘ったるい目つきに似つかわしくやわらかい微笑を浮かべている。190pの長身を見下ろすことなどそうあるものではない。私は二段下に立ち止まった彼の顔を覗き込んで少し笑ってしまう。

「すいません…いや、個人的にはありがとうございますってくらいなんですけど」
「いいよ、どうせ見えてもスパッツだし」
「うわあ、夢も希望もない」

思春期の男の夢も希望も知ったことかと前の私なら言えただろう。
そもそも今日は部活のはずなのにどうして彼はこの階段を登っているんだろうか。

「部活は?」
「ちょっと忘れ物しただけなんで、すぐ戻りますよ」
「そうなんだ。お疲れ様」
「うん。名前さんも気をつけて帰ってくださいね」

当たり障りなく分け隔てなく彼は優しい。たいていの女の子にはこんな対応で、でもマネージャーのみずほはもっと特別なのだろうか。とりとめのない疑問と、バスケ部の練習のときは閉めきられていることの多い体育館のドアの奥への妄想がぐるりと首を回したのを無視する。
そのまま彼とすれ違おうとした私の前に、立ちはだかったままの仙道が、「名前さん」とまるで引き留めるみたいに言う。

「さっき先輩に、名前さんと仲良しですって言ったら驚かれましたよ」
「私から仙道の話とかしたことないし」
「………名前さんって手強いなあ」

ちょろいと思われたら困るのだ。実際がどんなにちょろいやつなんだとしても、私が内心で彼の一挙手一投足に目を奪われていることを彼本人に悟られたくはなかった。
私が答えあぐねているだけなのに、その間を何だと思ったのか仙道彰はまた笑った。

「ねえ名前さん、まだだめですか」
「何のこと?」
「それはもちろん…だって俺だけばれてるのって不公平だと思いません?」

彼の白い額を眺めて、また口を閉じると、仙道は階段を上がってきて私の隣に立った。見上げるような長身から降りかかる視線で、たまらなく緊張してしまう。

「たぶん、名前さんが気にしてるのって、結構小さいことだと思うんですよ」
「でも気になるから」

仙道は面白くなさそうに、ふーん、と鼻を鳴らすと、私の腰に腕を回した。身長差のせいか身体が持ち上げられるように上向く。

「嫌がってくれないと俺、調子に乗っちゃうんですけど」

すっと近寄ってくる彼の鼻先が、まるで甘えるみたいに鼻筋に重なる。顔を背けられなくて、跳ねる脈を押さえつけようと深く息を吸い込んだ唇に、仙道は唇を押しつけた。

「嫌じゃないよ。でも私まだ覚悟できてない」
「いいよ。そんなの、名前さんが気にすることじゃない」

仙道の懐柔の声は心地よかった。探るように繰り返し唇がふれる。
後ろめたい気持ちなのに、それとは別の場所が高揚している。本当はそんなに深く強く考え込まなくても心の中では決まっていた。
彼女のことはもう、知ったことか。私も仙道が好きなのだから。

「……ドキドキする」
「うん。してて、名前さん」




なず・む、思ひ入りて執着する心なり。心、外にあらずして一筋に傾く貌さまなり
(広辞苑第六版より引用)

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