| ナノ


※学パロ


「ねえ、潮江ってさあ」
夏休みが間近に迫った期末考査の時期、図書室は相変わらずそしていっそう閑散としていた。大きな声を出したつもりはないのに私の声は書架の間で変に響いた。
潮江は整列した本の並びから、ちらっとこちらに視線を寄越した。目が合う。
──彼女とかいんの?
軽い気持ちで口にするつもりだった一言が不意に我に返ったように喉元で凍りつく。そんなこと聞いてどうすんだ相手はあの潮江文次郎なのに。逡巡の間に潮江は首ごとこちらに向いた。
「夏休みの宿題とかコツコツやるタイプ?」
「……始めの一週間かそこらで終わる」
「えー…マジで………あ、じゃあ頼りにしてますね潮江先輩」
「バカタレ。自分でやらねーと意味ねえだろう」
「お父さんみたい…」
潮江は喉の奥から低い声で、笑えねーよ、と言った。私は笑ってしまった。きっとそんなことを言いつつ彼は手伝ってくれるに違いない。面倒見はいいし優しいし、何より彼は教えるのが上手い。
ふと目の端に窓を見ると、さっきまでめちゃくちゃに晴れていた外は、にわか雨に見舞われて真っ暗で、雷まで鳴り始めていた。
本を持ったまま、何の気なく窓際の四人席のそばに行くと潮江も一緒になってやってきてふたりして窓の外を眺める。
「今日、傘持ってる?」
「…いや」
「私も」
考査期間中は部活動も停止しているせいか、校舎の中も外もすっかり静かで、激しい雷雨の音が不気味なほどだった。図書室の隅で首を回している古い扇風機の駆動する羽音など優しいそよぎに聞こえる。
「雷やばい」
「苦手か?」
「そこまでじゃないけど」
途端、カッ、とひび割れるように雨雲に稲光が差した。
間があって、雷の落ちる音がする。
私は軽く椅子を引き、そこへ浅く腰掛けた。
「帰れないねえ」
「すぐ止むだろ」
「まあ止まなくてもいいけど」
潮江はちらっと怪訝な視線をこちらに寄越して、立ったままの彼の顎の線を眺めていた私と目が合ったことに少し驚いたようだった。
「帰れないんじゃないのかよ」
「帰れないけど」
雷が腹の底に響くような音で鳴った。
一瞬蛍光灯が切れかけみたいにチカチカと忙しなく点いたり消えたりしたあと、またふつうに点いた。
たっぷりの間は言葉の続きを待っている潮江の沈黙だ。壁掛けの古い時計の分針が、がたりと危なっかしい音で進んだ。扇風機の羽音。手元の本。
潮江の厳しい目元。その目元を和らげてくれなくてもいいのだ。そうやって真摯に目を見るこの友人の誠実を好きだと思う。

「けど別に、それでもいいし」
彼は目を逸らさなかった。ざあざあと激しかった雨音がほんの少しずつ弱まっている。ひたりと机上に手のひらを置いて、潮江は何か言おうとして彼らしくもなく口ごもり、結局「バカタレ」と言った。
通り雨が行ってしまう。雷の音はもうだいぶ遠くなって、今は蛍光灯がチカチカするのと同じくらいの明るさで時折光る程度になっていた。
雨は、降り始めたときのように唐突に止んで、雲の切れ目から明るい日が差し始めている。うっすらと虹も見える。
「晴れたね」
「ほらな」
「帰る?」
「そうだな」
「潮江ってチャリ通だっけ?」
「おう」
「乗っけて」
「荷物だけな」
「やった。ありがと」

借りることにした本を入れると鞄は急に重くなった。
並んで立った潮江は背が高くて、野暮ったい時計をした日焼けした腕がたくましかった。隈の目立つ目元を癖か何かのようにしかめて、しっかりとした骨を感じさせる顎をぎゅっと引いて、彼はまっすぐに前を向いている。



潮江は言った通り、チャリの前カゴに私の重たくなった鞄も一緒に乗せてくれた。このくらい他の人にとっては何てことないのかもしれなくても、彼は優しかった。何と言っても彼はきっと、いつまでもぶつぶつ文句なんか言わずに夏休み中に私に会って課題を手伝ってくれるだろう。優しいのだ。そこらへんの女子が知らないだけで。
私はそのことを知っているので、だから、潮江に彼女がいてもいなくても平気だ。あんなことは聞かなくても彼とは友達でいられる。

「苗字」
「なにー?」
「休み中に会うのは俺でいいのか?」
照りつける正午の日差しは通り雨の名残を気化して、アスファルト舗装の道はなおさらじめじめと蒸し暑い。
こめかみを流れていく汗が気になって、でも潮江の横顔から目を離せなかった。
「潮江に会えないとさみしいしね」
「…そうかよ」
ぶっきらぼうに言った潮江はいっそう目元を険しくした。
「何、怖い顔して。照れてんの?」
「やかましい」
チャリを押すかたわらに彼はぐしゃりと私の頭を撫でた。やめてほしい、ちょっと汗かいてるから。
照れてるんだ、と重ねて言うと、潮江はついに私の後頭部を小突いた。頭、湿ってないだろうか。自分の手で確かめると後頭部は焼けるように熱かった。

「早く夏休み始まらないかな」
「気が早えよ」

いかめしい目元がほころんだ。笑った彼の横顔は年相応に幼い。
いつもそうしていればきっとすごくとっつきやすくなっておそらく少なからずモテるだろうけれど、正直、彼のこんな顔を知っている人が増えるのは面白くないので、彼はいつまでだっておっかない顔の潮江のままでいい。

「なあ」
「うん」
「休み中、どっか行くか?」
「勉強以外で?」
「…………」
「やだ潮江デートする?苗字とデートしたい?」
「聞かなかったことにしろ、このバカタレ」

交差点で、追っ払うみたいに手を振った潮江は忌々しげな顔をしていた。耳だけ真っ赤にして。
………早く夏になれ。

×