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「断れないんだ」
「悪い奴だなー」
「どうでもいい」
「刺されちまえ」

 両足をじたばたさせて非難がましく言った少女を有里は長い前髪の間からちらっと一瞥し、黙った。いつかはそうなるかもしれないとは彼自身思わないではなかった。現に今、特別な関係にある女性の中の、その誰でもない彼女と一緒にいるのだ。中学三年生。苗字名前。実際の年齢より幾分大人びて見えるのは、その少女らしからぬ油断ならない目つきのせいだろうか。
 影時間も近付く午後二十二時三十分。街灯の光を受けた彼女の顔はまっさらに白い。

「刺されるのは微妙だ」

 そこは嫌だと言ってもいい。苗字はまだ足をぶらぶらさせながら、無頓着な彼の一言に内心で呆れてしまった。
 有里湊が殊更に魅力的な人物であると、彼女は思わない。口癖が「どうでもいい」の時点でまず彼のお人柄を疑ってしまう。どうしてそうなのか、と見つめている間に彼は来るものを拒まずまたひとりとして去らせることもなく周りに女を侍らす事態になっていた。苗字にその修羅場はさっぱりと他人事であったので、変にアグレッシブだよな、と妙に感心してしまうのだが、反面、当事者の女性たちはどう思うのだろうと邪推してしまう。
 ……もし私が。不意に想像してしまった彼女は頭を振ってそれを払い落とした。

「苗字は」
「うん」
「俺が本当に刺されたら、どう?」
「……どうって?」

 彼を見上げる少女の両目は濡れたように光って、年齢に見合わない艶をはらんでいる。どうもこうも。有里は身体を乗り出して彼女の顔を覗きこもうとしたが、彼女の座っている滑り台の足場と彼の座っているジャングルジムとでは離れすぎていた。手すりの間から出てぶら下がる白い脚が、ふらりと風にでも吹かれたように揺れた。彼自身、もしそうなったとき彼女にどう思ってほしいのか分からず、口をついて出たのは、自分でも意外な希望だった。

「悲しいとかさみしいとか」
「思わないよ」
「そう」
「ざまーみろって思う、と思う」

 相手が興味深げに目を眇めたのを、苗字は見逃さなかった。かなしい、さみしいと思われたいような言い方はまるであなたらしくないねと言おうとしてすぐに、自意識過剰に思えたので彼女はそれを呑み込んだ。
 こういう会話の積み重ねで、みんな有里湊に惹かれていくのだろうか。……自分のために悲しんでほしい、と言われたら、なんてひどい男だろうと思うのと一緒に苦しいほど好きになってしまうのだろうか。
 興味の色を隠そうともしない有里の、見ようによっては雄弁な無表情を苗字は見つめ返す。

「有里さんの魅力って、ちょっと難しいんですよ」

 私にはわかんないかなあ。ぽつりと、皮肉な調子もないのに混ぜ返すように言った苗字をひたりと見つめて、有里はじっと考え込んだ。
 街灯の白い光が、彼女のむき出しの太腿を照らしている。ウェッジソールの重たそうなサンダルを履いた足がまたふらりと揺れる。
 彼らの会話の大半は黙考の時間だったが、有里にとっても苗字にとってもそれは取り立てて意味のある沈黙ではなかった。たいていの場合、相手の意図の深いところまで汲もうなどとは考えてもない。
 有里はつまらなそうに口を尖らせて黙っている苗字を見つめた。彼女が自分のために怒ったり泣いたり、例えばしたとして。きっと彼の心は動くだろう。彼女が考え受け止めるよりずっと劇的に。

 苗字は不意にひらりと身軽に立ち上がって、底の厚いサンダルの足元を気にしながら滑り台の斜面を駆け下りた。
 じき影時間に入る。

「こんな時間に帰って、心配されない?」
「さあ?あっちも帰ってないと思うんで」

 苗字はジャングルジムに座った有里を見上げて答えてから、さっと踵を返した。彼女の立ち居振る舞いは美しかった。

「苗字」
「はい?」
「またね」
「……はい」

 立ち止まった苗字は有里の方を見なかった。呼び止めて言いたいことがあったのに、有里は彼女に対してそれ以上口に出すことができなかった。
 揺れる黒髪が階段の下へ消えていくのと入れ替わりに、明るい色の髪の少女が姿を見せる。

「こんなところにいたんだ」

 岳羽だった。ジャングルジムの上でつまらなそうに足をぶらつかせる有里を見上げて、もうすぐ影時間だから寮に帰ろうと言う。そういえば今日はタルタロスに行く話が出ていたのだったか。彼はそのことをすっかり忘れていた。

「ねえ岳羽」
「なに?」
「……いや、なんでもない…ていうか、どうでもいいことだった」

 有里は時計を見上げる。二十三時十五分。ジャングルジムから降り、岳羽と並んで歩き出した。
 悪い奴だな、と彼女の毒づく声が耳に残っている。
 岳羽と他愛ないやりとりをしながら、やっぱり悲しんでほしい、と有里は思う。たとえ自分が苗字の言う通りの悪人でも、他の誰でもなく彼女に。

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