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「邪魔してんでえ」

電気の消えた部屋の中から、間延びした声が笑った。冷たくなった手でスイッチを探る。

「何か言ってから点けえや。眩しいやろ」


明るくなったリビングのソファに、白を基調としたインテリアとやわらかなオレンジの照明の室内にはおよそ不似合いなパイソン柄のジャケットの男が座っている。右目側の横顔でこちらに振り向いた彼はにやにや笑って、おかえり、と似合いもしない穏やかなセリフを口にした。


「いらしてたんですね」
「おう。ちょっと前からな」


真島吾朗。彼との付き合いはちょっとしたものになりつつある。初めて会ったのは二十歳の頃で、私はその頃まだサイの花屋の花束を運んで回るだけの使い走りだった。
足元に重たい鞄を落とす。ストッキングを脱ぎ捨てたい気持ちと戦いながら、真島さんが我が物顔で座っているソファに近付く。回り込んで彼の斜め前に立ち、見下ろしてみると、鋭い片目は口調ほどにやけたものではなかった。


「何かご用事ですか」


彼は近年普及し出した携帯電話による連絡を面倒がっている節があって、花屋を通さない仕事を私に押し付けたいときだとかにわざわざ私の住むマンションまで足を運ぶ。携帯で連絡を取った方が楽ですよと抗議してもこの四十路手前は聞く耳を持たず、そないちまちましたもんよう使わんわなどと供述し未だに拒絶している。
とにかくその関係上、以前のようなセキュリティ破りを諦めていただくために、部屋の合鍵とエレベーターの暗証番号を、疲れ果てて帰ってくる人間に対していつもあんまりな仕打ちをするこの真島吾朗の手に渡してしまった。


「用事?……別にないで」
「そうですか。着替えてきます」
「名前」
「はい」
「聞かへんのか」
「…何をでしょう?」


寝室のドアを開け、招いてもいない訪問者の声が追ってくる前に閉めた。このまま眠ってしまいたいくらいだが、いかんせんシャワーも浴びていないし化粧さえ落としていない。ドア一枚隔てたすぐそこにいる真島吾朗もどうにかしなくてはいけない。


「名前、入んで」

返事を待たずにドアが開き、現れた真島さんは隻眼をひそめて私を見る。

「…真島さん」
「三代目とヨリ戻すんか、名前 」


化粧落としを手に持ったまま、真島さんの顔を見つめ返す。陰影の濃い顔にいつものようなにやけた表情はない。


「そんな話、知りません」

気丈に言い放ったつもりが声は情けなくかすれてふるえていた。関心のない風に言いたくても喉が絞られるみたいに痛くてできない。
別れて以来、私にマンションの一室を買い与えた男はこの部屋にやって来たことも連絡を寄越したこともなかった。世良さんは私のことをきっと激務の片隅に思い出すこともないだろう。
でももしも彼の言っていることが本当で、あの人にそんな気が少しでもあるのなら。今さら何を言っているのかと相手を糾弾することが私にはきっとできないだろう。世良さんに、戻ってこいと言われれば喜び勇んでそうするだろうし、消えろと言われれば大人しくそうするだろう。私はそういう女だった。


「あの人がヨリを戻そうなんて思うはずありませんよ。体裁悪いですしね、実際」


取り繕って口に出して、自分でも納得がいった。できれば真島さんにもその通りだ、と大げさに頷いてほしいくらいだ。あの人は私を取り戻そうとは思わない。私は人知れず囲われて噂にもならず男の陰にこそこそと隠れて、それで守られてきたのだし、それでまたあの人に愛されたいなんてそれはとんでもない言い種だ。あんな都合のいいことは二度と起きない。


「なあ」
「はい」
「気ぃ持たすようなこと言うたんは悪かったな」


痛いくらいに眉間に力が入っていた。息をする度に、緊張した口元が引きつって違和感があって、自分が泣きたくなっていることがとてもショックだった。喉の奥が狭くなって、やっとの思いで吐き出したたった一回の息で涙が出た。


「真島さん」
「あん?」
「泣かれてメンドクサーって、顔に出てます」
「…あかんなあ、図星やしなあ。傷ついてもーたんなら堪忍してや」


真島さんはおどけた調子で言うが、堪忍、なんて彼が本当にそう思って言っているはずもない。脱ぎ散らかしたストッキングを踏み越えて、メイク落としをサイドテーブルに放り投げて、長身の男を見上げる。一度堰を乗り越えた涙はひたひたと頬を落ちて、笑おうとした口角はうまく上がらなかった。

真島吾朗。彼がこうして私に構ってくれることに、私が曲がった解釈をしたとして。
たとえば、いなくなった男の空白を埋めるために彼をそこに詰め込もうと私がしたなら、そういう場合彼はどうするのだろう。


「傷つきましたって言ったら」

ひとつしかない目で笑った彼の革手袋の手が顔の輪郭にかかる。

「付け込んで、くれますか?」



おどけた色話の端役がふたり
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