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世良さんと別れて1年。彼が買ってくれたマンションに相変わらず住んでいるのは、よく誤解を受けるのだが未練があるだとかではなく他に住む場所がないというだけで他の理由はさしあたり存在しない。

マンションは20階からは1フロアに1部屋しかなく、私の部屋は21階にあった。エレベーターでしか行き来の利かない部屋で、暗証番号を打ち込まない限りエレベーターはその階に停まることすらない。
その部屋にかなりの頻度でやってくる片目の極道者が今日はずっと黙り込んで不機嫌そうにしている。
私は世良さんと別れてこちらストイックに仕事に励んでいるからかこのところ睡魔と仲良くしているためにもう眠い。彼が何か切り出す前にそれじゃあおやすみなさいと寝室に下がりたい気持ちでいっぱいなのだ。


「ねえ真島さんいつも思うんですけど、いちいち来
る度にマンションのセキュリティ突破してくるのやめてくださいよ」

眠たい頭で、そういえばこれだけは毎回言わなければと思っていたことを口に出す。そうなのだ、彼はどこぞのスパイ映画にリスペクトでもあるのか度重なる訪問の際まず必ずといっていいほど玄関ホールとエレベーターのセキュリティを無理やり突破し、我が家のドアを破壊し、通報ギリギリの、むしろなぜ通報されないのかが謎なほどの侵入劇を演じているのだ。


「そういうことされると私がこのマンションにいづらくなるじゃないですか」

「なんや、まだ立ち退き勧告せえへんのかいな。案外悠長な管理人やな」


ようやく口を開いたと思えば、不穏なことを口にする。あなたもう三十路も半ばのいい年なんですからと思ってはみるものの、彼にそんな説教が通じないことはもう分かっている。

「勘弁してくださいよ、住むとこなくなっちゃいます」

真島さんの不機嫌な横顔が不意に私の方を見た。その片目に睨むように見つめられることは多々あるものの、今日ほど表情のないのは珍しい。一瞬眠気を忘れて、黙っていればとても整った顔をした中年の男を見返してしまう。この人は黙っていると本当に、とても素敵な顔だった。


「まだこないなとこ住んで、未練たらたらやな自分」

「勝手ですよ、私の」


彼の機嫌の芳しくない理由は分かっている。彼の弟分にしてお気に入りの遊び相手である「堂島の龍」が投獄されて以来、彼は退屈で退屈で荒みきっているのだ。

あっけらかんとした私に向かって真島さんは目を眇め、小さく私の名前を口に出した。名前、と。
世良さんとは違う声の感触に、私はなんだかくすぐったいような気持ち悪いような気分になり、真島さんから目を逸らした。
真島さんはなんという風でもなく無言で、黒い革の手袋を外した。彼の素手が現れると私は意味もなくどきどきする。


彼に供する酒もないこの部屋に何をどう好き好んでこの人が足繁くやってくるのか分からないけれどいい加減セキュリティー破りの客人でいてもらっては困るし、暗証番号を教えて合い鍵を渡してしまおうか。渡してどうなるわけでもない。たまに部屋に入り込まれるだけだ。世良さんの訪れなくなった部屋を彼が荒らし回ったところで私の心中に波風は立たないだろう。金目のものや貴重品はちゃんと安全に保管しているし、そもそもこの人がケチな泥棒のような真似をするようにも思われない。
唯一困るとしたらセラーの酒を飲まれることだが、それもなんだか最近では構わないような気がしてきていた。それを飲む人はもう二度とここには現れないのだ。

それともあのセキュリティーをかいくぐる快感のためだけに真島さんはうちにやって来るのだろうか。……ないと言えないところが、真島吾朗という男のおそろしいところだ。


「名前」
「はい」


そっと呼ぶ声は普段の不気味なテンションの高さなどみじんも感じさせなかった。彼はそうやって重鎮らしく物静かでいることで得るメリットなど必要としていなかった。ひょうきんな調子でへらへらしているのが楽なのだろう。確かにその方が彼の不気味さが浮き立つのだしこの人の立場や何をしでかすかわからない特有のオーラを考えるとそんなふざけた態度でいても、舐められるなどということとは無縁に違いない。
真島さんが手袋をローテーブルの上に投げ出した力のない音が、なぜかよく聞こえた。


「お前、俺んとこ来るか」
「行きません」
「なんや、とりつく島もないな」
「花屋の秘書になれるかもしれないんです」
「…そらぁ、出世やな。せいぜい気張り」


真島さんは立ち上がって私を見た。背の高い彼のことを顎を上げて見上げなければいけなくて、すぐそばまでたった二歩で距離を詰めてきた真島さんの、表情を拭いとったような整った顔が少しおそろしげに思えて、二歩、私も後ろへ下がった。なぜかローテーブルの革手袋から目が離せなくて、迫ってくる素肌の手が急に生々しい。


「こっからは個人的な用件やねんけど聞く気ぃあるか?」


眠っそうなツラぁしよってからに、と笑いもせずからかうように真島さんが言う。一度も私にさわったことのない真島さんの手がゆらりと浮くように持ち上がって、初めて、私にさわった。前髪をかき分ける指先は節が目立っていて太く、すっと長くて、武骨なのだけれどなんだかとてもうつくしく思えて息を呑んでしまった。世良さんとは違う。あの人の手はもう少し細くて、真島さんよりもきっと少しだけ指が短い。


「内容によります」
「おー言ったるわ」


前髪を分けた指先が後頭部へ流れて、首の裏を掴んだ。


「むしゃくしゃしとんねん。相手してや」


それって殴り合いしろってことかなあとぼんやりしている内に唇にふれた唇が私のぼやけた考えや睡魔にそのままかぶりついて飲み込んでしまった。
真島さんの刺青の見える胸板を押す。思っていたよりずっと分厚い。現実に起こっていることには思えなくて、だからといって夢と思えるわけでもない。男の舌がねっとりと、堅く合わせた歯の上下を撫でた。

「真島さん、まさか本気じゃ」

ないでしょう、と言いかけて目が合って、相手が少しもちゃらけた雰囲気でなどいないことに気がついた。

「真島さん」

すがるような私の声に彼はすうっと目を細めただけで応えてくれなかった。




買い換えて3ヶ月も経っていないそっけないシングルベッドで、うつぶせで這ってでも逃げ出そうと身をよじった上から馬乗りになられて、背中にぴたりと真島さんの裸の胸板が合わさる。顔の脇に彼の素手が片方、現れる。もう片方がベッドシーツと私の身体の間に這い入ってきて仕事用のブラウスのボタンを器用に外していく。彼のそのていねいな仕草にぎょっとした一瞬、私は抵抗するのをやめた。襟首を掴まれたブラウスは後ろへはだけた。
自分の髪がひやりと肌にふれて、はっとした。服の下に隠してきたのは何も素肌だけではなかったからだ。顔のそばにあった手が私の髪をかき分ける。


「……萎えた」
真島さんは私のうなじの上に鼻白んだように言い捨てて、圧迫するように重ねていた身体を離した。



世良さんと別れてから、右肩側の首の根元に刺青を入れた。これのことは誰にも言ったことがないけれど例えば何か世良さんの心変わりだとかでもう一度奇跡みたいにあの人に愛されるとして。そのときのための願掛けのようなものだった。未練がないなんて甚だ嘘もいいところだった。
身体を起こして、たぐり寄せたブラウスの上から花の刺青にさわる。

「お前のようなしょうもない女、俺はいらん」

真島さんは低く重たい声で、ひとりごとのように言った。


「真島さん」

見慣れたジャケットの背中に目をやる。彼は寝室から出て行こうとしていたところで、けれど振り向いて私を見た。
目が合って、私が何も言わないでいると、真島さんは踵を返して部屋の中へ戻ってきてベッドの上で座り込んだ私を腕一本で抱きしめた。ぐ、と彼の裸の手が刺青の上を押さえた。

「俺のものになられへんのやろ。ほんならお前なんぞいらん」

この刺青に持たせた意味も知らないはずの彼が、噛み合わせた歯の奥から唸るように言う。


「むしゃくしゃするわ、ほんま」


たわけた夜話に花の毒
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