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傷ついているときに、かわいそうにと頭を撫でてくれたり抱きしめてくれたり、そうやって慰めてくれる人ならいた。いることには確かにいたけど、ただしいるだけでそのことは特に心の動く出来事ではなかった。私のことを本当に好きでたまらない人なんか、私が誰かをたまらなく好きだと感じたことがないのと同じで、いるはずがないと知っている。私の涙が、実はあっさりと乾いてしまうような浅い理由で流れていることを彼らは知っていたし、どれだけ安い行為なのか、私だって分かっていた。
だからきっとこれが本当に心から傷ついているということなのだとしても、私の周りには、それをいつもの同情を買い占めるためのあざとさだと思う人しかいないのだ。
口腔の奥、喉の途中で、嗚咽を止めてしまうと、そこで行き詰った空気が額へ流れていったみたいに頭痛がした。じんわりとこめかみへ伝っていく頭痛を、こんなに痛いものだったろうかとぼんやり反芻しながら、動きたくない、と思った。
ひと気のない奥まった廊下は、蛍光灯が切れかけていて薄暗い。ここから学内のバス停まで移動して、そこから1人暮らしのアパートまで歩いて帰る、という行程が途方に暮れるような道のりに思えてますます動きたくなくなった。ポケットで携帯のバイブが鳴っている。誰かれ構わず電話かメール、宅飲みで愚痴、カラオケ行って買い物行って憂さを晴らして。一通りそんなことを考えて、途端、騒々しい輪の中で一緒になって騒ぐような気力なんかないとすぐに気付く。鼻をすする。窓の外には、散りかけの桜の木が一本きり見えている。
目の奥からこみあげてくる涙の音と、心臓の音とを聞きながらじっとしている私の後ろで、静かな足音が近付いてきて、そっと止まる。ほんの少しの沈黙と、その間隙に窓の外から聞こえてくる能天気な笑い声。誰だか知らないけど人生が楽しそうで何よりだ。

「名前」

私が泣いていることには頓着のない口調で、でも普段よりはずっとやさしい声音で、男の声が私の名前を呼んだ。よく知った男の声だった。伊達。付き合いは十何年来という古い友人だ。
黙ってやっぱりじっとしている私の肩に、彼は遠慮のない指先を置いて、その動作だけはためらってでもいるようにそっと自分の方へ引いて振り向かせようとする。

「今顔やばいからやめてよ」
「…知るか」

伊達があんまりふて腐れたように言うので、私が最悪、とこぼした声は意図せず笑っているように高く陽気に響いた。伊達は、振り向かずにいる私の肩に置いていた指を引っ込めて今度は少し強引に手首を掴んだ。痛いよ。言葉の端がぶれて滲んだ。

「お前の泣き顔なんか一回見たら充分だ」

彼がぶっきらぼうに言う。…伊達とは息の長い友人関係を築いてきた。私は彼の前では、女になることがなかった。媚びなかったし褒めなかったし絶対に、さわらなかった。他愛ない会話に一緒の時間の全部が消えた。そういう関係の心地の良さは、上辺だけでも私を慰めてくれる誰かよりずっと捨てがたいものだということだけがいつも確かだった。だから私は彼の前では泣きたくなかったし実際たった一度の失敗を除けば概ねそうしてきていて、彼といるときはばかばかしいおしゃべりをしていたかった。彼と、色恋の話なんかむず痒くてしたくなかったし、してこなかった。
だから本当は男に捨てられたくらいでめそめそしているところなんか絶対に見られたくなかった。

「…泣いた理由、あんとき結局言わなかったよな、お前」

顔を見ずに私の手を引っ張って歩き出した伊達は、どこか歯痒そうな調子で言った。以前、不覚にも彼の前で涙を見せて図らずも彼の意表を突いてしまったとき。あのときは親と進路だか何だかの件でありきたりな喧嘩をして、友達とも彼氏とも上手くいってんだかいってないんだかで煮詰まってしまっていて、彼の顔を見たらなんだかいろんな言い訳や抗弁を必要としないことに安心してしまって。そんな風に気楽な付き合い方ができたのは彼とだけだった。だから。

「聞いたってつまんないと思って」
「つまるとかつまんねえっつー話じゃねえだろ」
「だから私の愚痴なんか延々聞いてもつまんないだろって」
「…つまんねーかもしんなくても、話せよ。お前の愚痴なんかこっちは聞き慣れてんだ」

きみに嫌われることを考えた。私と話すことに別に楽しいとかつまらないとか大した感想も持たずに友達をやっているだろうというのは分かっていたけどそれでも不安になった。
昨日、泣く私を慰めてくれた男が今日、笑う私に見向きもしなくてもきっと私は傷つかない。でももし、きみが私の名前を呼んでくれない日が来たならば。変わらない関係を疎ましく思う日が来てしまったら。きっとそのことは私の心の底に大きな傷を作る。

「とりあえずお前ん家、行くからな」

伊達は言って、私の手を引っ張ったままバス停まで行ってバスに乗り、西日の差す車内で斜め下を見てうつむいていた。
私の涙はすっかり引いて、部屋に友人をもてなすものが何もないことを考えていた。


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