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こんなに暑いのにそいつだけやけにさらっと冷たく乾いているように見えて、私はそいつが羨ましかった。
なんでそんなに涼しげなの?と言いつつ彼の腕にさわると、職員室から戻ってきたばかりですっかりエアコンに冷やされた肌はさらりと冷たい。

「なんでも何も、エアコンがあるからだろ」

ぺしりと手を払われる。弱冷房を義務付けられている教室の中は、そよそよと中途半端な冷風に閉じ込められた人いきれが混ざって、冷気より湿気が強いように思えた。肌がべたつく不快感は気のせいではないのに、この男はそういうものに関してはまったくのストレスフリーだった。


「苗字」

私が見つめるのを怪訝そうにした伊達は、振り払われて所在なく浮いたように止まっている私の右手を掴んだ。
私の手は熱くても汗ばんではいなかった。

「次、移動だろ」
「……あ、うん」

……彼を名前で呼ばなくなったのはいつ頃からだっただろうか。
睨むようにこちらを見る片目を見返して考えてしまう。
私が名前を呼ばなくなると、彼も私を名前で呼ばなくなった。自分から始めたことに微妙に傷ついて、やめときゃよかったと思い始める頃にはなんだか後に引けなくなっていた。
…私たちが例えばもっと別の関係で、家の行き来なんかしてなくて一度も下の名前で呼び合ってなくてメールには絵文字顔文字がレギュラーで登場して子供じみた悪口とか小突き合いみたいなやりとりもなかったとしたら。
たぶんその場合の私たちの関係はまず間違いなく、名前もあやふやなクラスメイトくらいのものだっただろう。今みたいに。
だからって今さらさみしいとかそんなんじゃないはずで、別に決定的に仲が悪くなったわけでもない。普通だ。……ふつう。

「一緒行く?」
「バカか。自分の連れと行け」

言いながら彼は私の手を離した。
トイレから連れ立って帰ってきた友達3人が、ごめーんとか言いながら早く行こうよと私を急かしている。教科書を出して友達と合流すると、伊達は自分の友達と2人で教室を出ていったあとだった。

「仲いいよね」
「え」
「違うの?」

伊達と私のことをそうやって言う人はすっかり減っていたのに、彼女はしれっとして言った。昔は幼なじみだった、と今だって別に変わったわけじゃないのに私のことを過去みたいに言った伊達の一言を何故だかみんな知っていたから。

「…昔はね」
「今もでしょ」

違う、とも言えずに私は口をつぐむ。今もそうだとはっきり自信を持って言えたらいいのに。





まだ午前中の放課後、戻ってきた教室には誰もいなかった。
私は担任からの呼び出しがあったので、友達には先に帰っていいと言ってあったし、うちのクラスは人はけの早さだけが自慢だった。

夏休み前のテスト期間中で、部活のマネージャー業もしばらく休みだと忘れていて、部活用の諸々が入ったバッグを机にかけっぱなしにしていたのを取りに戻ってきただけだったのに、私は何とはなしに自分の席に座った。冷房が切れた教室の中は日陰になっているのにじわりとむし暑くて、私は自分の頬骨の上を撫でて汗をかいていないかだけ確かめた。
窓側2列目、後ろから2番目。この席からだと教室のだいたいの様子はよく見えた。誰が寝ててゲームしてて落書きしてて真面目に授業受けてるのか、誰が誰を見てるのかとか。
斜め前の席の女子はいつも伊達を見ている。私みたいに。

「何やってんだお前」

教室の入り口から呆れたような声がかかった。伊達だった。私は机上にだらりと身体を伸ばした格好のまま、これも伸ばしていた腕を胸の前に持ってきて上半身を丸めた。

「考え事してんの」
「教室で?」
「…教室で」

腕の中でくぐもった私の声をちゃんと聞き分けたらしい彼はぺたぺたと上履きの底を鳴らして近付いてくる。
しょうもねーことしてんなあ、とまた呆れたように言った彼は、少し笑っている。
顔を上げてみると彼は思っていたよりずっと近くにいて、前の席の椅子の背に寄りかかって立っていた。

「その考え事っての、聞いてやろうか」
「いいよ、大したことじゃない」

目を見て言ったのに、気後れしているのは私の方だ。
伊達はまるで、ムキになって聞くのもどうだろうかと思案するような顔で私を見下ろしている。こんなとき彼の目線は嘘をつかない。もっと違うときの彼なら上手くごまかすようなことまで私にはよく見えるようだった。

「そっちこそ、何してんの」
「…呼び出し」
「え、担任?」
「いや…別に」

彼が気まずそうに目をそらしたのを見て、私には察しがついた。

「分かった、そこの人だ」

私が斜め前の席を指差すと、伊達は呟くように一言。

「知らねーよ、席とか」

きっと彼女の名前も知らないんだろうなと思って、私は不意に悲しい気持ちになった。私も彼女と同じだったかもしれないし、いつかこの男が誰かに本気になる日は来る。

「付き合うの?」
「…断った」
「バカか」
「あ?」
「かわいい子じゃん」

彼女を持ち上げつつほっとしている。いやな女だな。私は暑さのせいなのかこの妙な焦りのせいなのか熱を持ってしまった手で顔を拭った。別に汗なんかかいていなかった。
伊達は答えずに黙った。
見下ろす目を何か言いたげに眇めて、ためらってでもいるようにうつむいて黙る。
彼の例えば特別な誰かになれなくても、それでもまだ私には彼と関わっていける希望がある。家がご近所の幼なじみで、ただそうだというだけで。
例えば私たちがもっと別の関係だったら、そんな小さなことにこだわらないでいられたのか。初めから彼を自分のものにすることもできたのだろうか。いつか彼が好きになる誰かを待たずに済んだのか。

「名前」

うつむいていた伊達が小さな声で私の名前を呟いた。
たったそれだけで私がどんな気持ちになるか考えたこともない彼が、寄りかかっていた椅子から離れて私の机に手のひらを置いた。

「お前、周りのことはよく見えるのにな」
「褒めてんの?」
「呆れてんだよ」
「なんで」

間近で見るのは久しぶりの伊達の顔が苛立たしげにしかめられる。私が首を傾げたのと同じタイミングで、目の前の顔がさらに近付いた。唇が熱い。

「何で一番近くが見えねーんだ」

顔に彼の手が添えられて一瞬息が止まった。私が何も言えない内に彼はこの流れの中ではごく当たり前のことのように私にキスをした。
私に見えなかったことなら彼に見えなくても仕方がなかったのだ。
ほんの少し開いた隙間にささやいた名前は、その持ち主の唇の間に消えていく。

「政宗」
「ん?」
「好き」
「…ん」

彼はとても優しくもう一度キスをして、帰るぞ、と手を差し出した。いつもひんやりと涼しげな政宗の手は、少し熱を持っていた。
外はまるっきり夏で死ぬほど暑いのに、私たちはこれから手なんか繋いで帰るのだ。…彼氏とか彼女になっても、幼なじみだった昔みたいに。


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