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「きみを置いていくみたいで後ろめたいの」

私が言うと、彼は元々目つきなんてよくないくせにさらに怖い目をしてこっちを睨んだ。こいつ何言ってんだ、という顔をしている。

「何言ってんの、お前」

やっぱり言った。



五輪代表に選出されて代表として試合出て、ホームチームではレギュラーでスタメンで、サポーターにメディアに騒がれる存在になってきて、お前を置いて行っているのは俺の方だ、と思っているのだ。彼は。
私の意図的に冷ややかな目を見てなお、彼は私の気がふれてしまったんじゃないかと思ってでもいるような顔をしている。私がただの大学生で、サークルでちょっと武道をかじっているくらいの何てことない一般人だからって彼は、ステータスのない私に彼を置き去りにするような何がしかはないと思っている。社会的地位で言ったらそりゃあ劣るでしょうけどね。

「もっかい言う?」
「違う。意味が分かんねーんだよ、お前のそういう唐突なところ」

リーグ戦だか何だかの遠征から帰ってきたばかりで疲れているからか、彼は盛大なため息と一緒にソファに身体を沈めた。私は生乾きな自分の髪の毛先にさわった。しばらく彼と会わなかった間、私と私の周囲は目まぐるしかった。彼が疲れているのと同じように、私だって疲れている。赤崎遼という男は、いつだって私の心を傷付けたり癪に障ることを言ったりが得意で、きっと彼にとって私も似たような存在だということも私はちゃんと承知していた。

…話していないことがたくさんある。
例えば、最近サークル内で付き合い始めた男女の男の方にこっそり浮気していたことを告白されたし、先々週の日曜に昇段審査を受けたから私はもう空手の有段者になった。ゼミでは大量の課題が出て、自分が取ってない授業の教授にかなり濃厚なセクハラをされた。審査があった週には教務事務室側のミスで単位が全部消えるところだったし、全然関わりがないはずの他の学部の人に告白されて最近は事あるごとに声をかけられている。明日は一限からで朝が早い。サークルの練習は週3、3時間。彼氏にすがって慰めてと泣いたって許されるようなことが今日までいくつもあったはずなのに、実際の私はメールしてみても電話してみても滅多に連絡のつかない、会うのなんか本当に稀な男と付き合っている。信じられない。どうしてこんな奴と付き合っているんだ、とずっと考えないようにしてきたことが頭の真ん中を占拠した。元々、私の話を素直にうんうん言いながら聞いてくれるような男ではなかったけど、それでも聞いてよ、と言えば聞いてくれていたような気もした。一カ月。放置しておいて当然みたいに私の家にアポなしで来るなんて本当にお前は何様なんだ、赤崎遼。

「もっとちゃんと私のことを気にかけてくれて、私のことが好きでたまんない人と付き合いたい」

いつでもそばにいてほしいなんてアホみたいなことは言わない。ただでさえ相手はもう社会人で不規則な仕事だ。でも、時々余裕をなくしたときとかしんどかったりしたときとか泣きたいときとかに、抱きしめてほしかったのだ、ずっと。私が辛いときに赤崎が私に何をしてくれたっていうのか。
現に今、泣き出した私を見た彼は眉間に皺を寄せて面白くなさそうにするだけだ。

「…んだよ、それ」

不機嫌そうに呟いてそれきり、赤崎は舌打ちだけして黙ってうつむいた。私は頭に被ったタオルを引っ張って外して、洗濯籠に入れようと踵を返す。別れたい、とそれだけ言えばいいのにうまく言えない。後ろめたくて。支えようと思ってきたのに、私は彼をグラウンドに置き去りにする。

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