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「私は時々分からなくなるよ、鉢屋」


眠たげに瞼をこすった彼女が囁くように吐き出すようにしてこぼした自分の名前を拾って、私はとりあえず顎を上げた。彼女はこちらを見もせず、さも退屈そうにあくびをひとつ。ああねむい。この真夜中に、忍者にあるまじき率直な一言だった。


「今日の朝日を拝む前にどうにかして眠ってやりたい」
「………」
「何かお言いよ、お前らしくもない」
「……失礼。先輩の今しがた仰ったことの意味を少し、考えていたもので」

もう一度彼女は、こぼすように、らしくもないと呟いた。白い肌の上に載った唇の赤さが夜闇に映えた。




その人が学園を去って一年。どこだかの隠密機動隊に入隊したか何だかの先輩は、特別講師としてくのたま教室に招かれたのだそうで。

「鬼ごっこしてるんだ、今」

縁側にしゃがんだ膝に頬杖を突いて、彼女は変わりない笑顔を見せた。昼日中の明るさの中でさえ、彼女の肌の白さと唇の赤さが目を引く。目がちかちかする。彼女は肩にかかる鮮やかな黒髪の束を首の一振りで背へ流した。
彼女が言うに、今年卒業予定のくのたまの中から自分の所属する組織へのスカウトも兼ねているのだそうで、彼女を捕まえられたら、希望する者には即時内定が与えられるのだとか。

「久しぶりに顔を見せてくださったと思ったら、私は物のついでですか」
「それ以外の何かで会いに来てほしかったって?」


十六にもなって悪童のような顔で笑って立ち上がると、先輩は身を翻した。じゃあね、と手を振る彼女の手を、うっかり掴んでしまったから大変だ。

「捕まえましたよ」
「え?」

ああ、細い腕だな。掴んでからそう思った。先輩が驚いたような顔をしたのは一瞬で、すぐにあの沈着で不敵な表情が戻る。鉢屋、と変わりない声。人の名前を呼ぶときでさえ気だるげだ、あなたは。

「募集はくのいちだけだよ」
「私の変装の精度をご存知ありませんでしたっけ?」
「いや、よくよく存じてはいるけども」

顔の上には、困ったような顔をして。彼女の腕の一振りで、手を解かれてしまうのが嫌で力をこめると先輩はいよいよ怪訝な顔をする。

「どうしたの、鉢屋。久しぶりだからか知らないけど、お前、今日は変だよ」

らしくもない、と、続いた彼女の言葉の端がぶれて、あの夜と重なる。あなたの分からないと言ったその声音が、私にはひどく意味深長に思えてならなかった。それがあの日の睡魔のせいなのか、それとも彼女が不自然に言葉を切ってごまかしてしまったせいなのか。
引っぱり寄せようとすると彼女の腕が抵抗するのが分かった。逆背負いの危険を考えてその頼りなく細い腰に腕を回す。あなたがあの夜、私を見もせずに言った。時々分からなくなるよ。それに続く言葉を、あなたが口にしなくても私は知っていて、だからあなたが許せなかったのだろう。らしくもないだなんて、どの口が。
閉めた障子を突き抜けて昼間の陽光が部屋の半分を照らす。同業者に押し倒されたくらいではびくともしない鋼のメンタルをお持ちの先輩は、凝りずに笑った。

「庇ってくれたのならありがとう」

長屋の縁側に着地した軽い足音が、しばらく周囲を観察するように気配を静めたあと、ぱたぱたと遠ざかっていく。

「くのたまは立ち入り禁止なんですけどね、この長屋」
「固いことは言いっこなしだよ。みんな内定がほしいわけだから」
「そもそも、OGだからって学内でスカウトなんかしていいんですか」

まあまあ、となだめるように流したあと、人事を十六の新米に一任するようないい加減な組織だからね、と彼女は言った。それは別に免罪符じゃないと思うんですがね。

「ところで鉢屋」
「なんです?」
「退いて」

有無を言わさぬ声調だった。彼女はやっぱり顔の上だけ笑って繰り返す。退いて、だなんて、先輩。私の図々しいことなんてあなたなら知っているでしょうに。部屋の奥は薄い暗がりの中で、目の端には陽光の刃先が覗く。彼女の首筋が白い。赤い唇が、曲がるように改まって笑う。
すらりと伸びた腕が借り物の輪郭にふれて、彼女がこぼすように鉢屋、と私の名前を。見上げてくる目の光がまるで探るようで息が詰まる。きっとあのときあなたが続けようとはしなかった言葉の先を私は知っている。

「私が変だと仰るなら、それはあなたのせいですよ、先輩。もしやお気付きでないとか?」


私は時々分からなくなるよ。あなたがそう言って眠たげに伏せた目を私はじっと見て、その続きを睡魔に預けてしまったのだ。―分からなくなるよ、お前が誰なのか。…あなたが続けなかったその一言を。
私はきっとあなたに知られたかったのだ。鉢屋のものにあるまじきあられもない欲だったのだ。
あなたに名を呼ばれ、あなたに暴かれたかった。
私を知らないくせにらしくないなどと言って傷つけるあなたに。


「お前、変装だけは完璧なのに、ばかなことだよ」


そうやってあられもなく晒した私の欲に爪を立てて抱きしめて、あなたはひどいひとだ。私の気持ちを知っていた。


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