確かに私はあいつの恋をばかにしたけど、あいつは私が誰かを本気で好きでいるなんてことさえ知らない。 私だけが悪いんじゃない。……そのはず。
「俺、バイトするわ」 「…続くの、坊ちゃん」 「絞めるぞ」
昼休み、奴は唐突に言った。求人雑誌をばさりと弁当やら購買のパンやらが並んでいる机に出して、条件良さそうなところを一緒に見繕え、と偉そうに続ける。開けたばかりの購買のバックジュースにストローを差して、私は求人雑誌を爪の先で弾いた。こんなもの。
「そういうのはバイト大王にやってもらえば?」 「元親の奴、捕まらなかったんだよ」 「元親探す労力も惜しむような奴に労働は無理でしょ」
ストローを咥えて鼻で笑ってやると、伊達はあからさまに気分を害した様子で雑誌を手に取った。 伊達は旧家の坊ちゃんだ。蝶よ華よとばかりに可愛がられて育てられたそんなお坊ちゃまにバイトとはいえ、労働なんてきついものができるものだろうか。何たって社会性は限りなく0。私はさっさと音を上げる方に賭ける。
「お、呼んだか?」 「あ、元親」
不意に廊下側の窓を開けて、元親が顔を出した。伊達が広げた雑誌類を見て、バイトでもすんのか、と彼は何が可笑しいのかからからと笑う。横槍を入れられたように煩わしげに伊達が元親を睨んだ。私は一口、ぶどうジュースをすする。どんな経緯で伊達がバイトを始めるにせよ、私にはあまり関係が無かった。なんとなく目的の想像もつくし。
「名前、それ一口くれよ」 「やだよ。元親の一口どんだけ大きいと思ってんの」
元親はいいじゃねぇか、と言ってそのまま私のぶどうジュースを取り上げてストローに口をつけた。伊達が面白くなさそうに雑誌の紙面を指先で叩いている。 どうして急にバイトなんか、とか、本当は訊きたかったのに私はそのまま口を噤んだ。どうせ大した理由じゃない。そうに決まってる。自分でそう思いたいだけだということは置いておいて、私も手近にあった派手な黄色の冊子を開いた。 別にバイトなんかしなくたって金は持ってるじゃないか。舌の上で転がした一言を、私はどうしても言い出せないのだ。伊達には伊達なりの理由があって、そして私がその理由にも目的にもなれないことは分かりきっているから、だからどうでもいいことだった。訊いたって自分の傷口を抉って広げるようなもので、私はマゾじゃないし、恋とか愛とかは疲れるから本当はそういうのだって得意じゃない。誰かを好きだとか嫌いだとか、どんな意味でだって、特別に思うことは疲れる。
「接客はきっと無理だよね」 「愛想がねェしなぁ」 「でも料理上手いから、キッチンだったらいけるかな」 「まあその辺が妥当な線かもな。接客以外となると割と狭まるもんだしよ」 「…バイト仲間と上手くやれるのかしら、この子」 「……政宗よォ、俺と一緒のところでバイトすっか?」 「お前らこの俺をバカにすんのもいい加減にしとかねぇと目潰しかますぞ」
元親は一個しか残っていない目を庇って若干廊下に後退した。人が心配しているのにこの態度。横目に伊達を窺ってから、私は元親の肩を叩いてちょっとだけ慰めてやった。
「やめとけば、バイト」
伊達の目を見ずに私は言った。
「…関係ねえだろ」
機嫌を損ねたらしい伊達は、苛立たしげに雑誌を放り投げた。
その日の放課後、伊達がさっさと教室からいなくなってしまったせいで、私は元親と帰ることになった。伊達はいつも元親と帰るくせに、どうやら今日はその親友に一言もなく帰ったのだとか。だから元親は私に声をかけたんだとか。ピザまん奢って、と言ったら、元親はちょっと笑って、「いいぜ、ちょうどバイト代入ったところだしな」とか言いつつ私の頭を撫でた。片やバイトが決まらず、片やバイトの給料が出たという。伊達、かわいそうな奴め。
「結局あいつ、バイト決めたのかな」 「さあな?あとでメールしてみっか」
学校から最寄りのコンビニの、バイトらしい店員はおそろしく愛想が悪かった。接客をやるとしたら伊達もあんななんだろう。なってない。
「ほらよ。おまけだ」
コンビニを出たところで元親はコンビニ袋を漁って、私にホットココアをくれた。頬にくっつけられた熱いペットボトルが、じんわりと冷えた顔を温める。
「…え、チカちゃんかっこいい」 「当たり前ェよ」
ありがたく受け取ったピザまんと一緒に手に持って、駅前までの道をどうでもいい話なんかしながら歩き出す。 伊達はどうしてバイトなんか。元親と喋りながらやっぱりそんなことばかり考えていた。
「名前」 「ん?」 「そんなにあいつ心配か?」 「あー…ああ、ほら私お姉ちゃんじゃん?」 「お前が姉ちゃんじゃ頼りねェだろうなあ」 「うるさいよ」
本当は伊達が急に気張り始めた理由なんてだいたい予想がつく。だってあいつはガラにもないくせに本気で恋なんかしているらしいからだ。誰になんて知らないけどそれだけは私も知っていた。バイトを始めたのとそれが関係あるかは知らない。でもあいつはどうやら本気だった。私にそうと暴露したときのあいつの声音はふざけていなかった。
「なあ知ってっか?…あいつ、好きな子に社会性が無ぇって言われたのがショックでバイト始める気になったんだと」 「…何それ。あいつも意外と安いな」 「だよなあ。まあ、分からんでもねェがよ」 「あーあ、男ってバカよねー」
ココアに口をつけて、もう一度心の中で同じセリフを呟いた。男ってバカよね。 とても一途に誰かを好きだと、そう言った伊達をバカにしたことは今さらだけど少し後悔している。私の本気の恋に気付きもしないで何を言っているのかと思ったままのそれは僻みだったからだ。
「男がバカなんじゃねェよ。女が騙くらかすからいけねーんだ」 「どうだか」 「期待させるだけさしてよォ。お前みたいな女に引っかかる俺が悪ィのか?」
ピザまんの最後のひとかけらを口の中に押し込んで咀嚼する。元親の言葉も一緒に。後頭部をかき回して気まずそうにしている元親の顎を見上げて、私はピザまんを飲み込んだ。とりあえず私はそんなに思わせぶりなことをしてきただろうか、と思ったけど、たぶんそうなんだろう。そう言われてしまったからには。
「なに、引っかかってたの?いつの間に」 「お前が気付かない間だよ」 「…そりゃそうか」
乱暴な手が私の頭を二、三度撫でた。なんとなくはにかんでいるようにも見える元親の顔を見ていて、私もこんな風に潔く告白できたらよかったのかなと少しだけ思った。まあ元親のはちょっと回りくどいけど。
「返事した方がいい?」 「そりゃお前……いや、何も言うな。ダメ元なんだよ」 「いいよ、付き合おうか」
元親はこっちを向いてそのまま固まった。自然とお互いに足を止めて、私は元親があまりにも信じられないという顔をしているから笑ってしまった。 置いてくよ、と口に出した自分の声が意外とはにかんだ調子で飛び出したのが妙な気分だった。
誰かを好きだとか嫌いだとか、どんな意味でだって特別に思うことは得意じゃないし疲れる。 けど、思われるのは別だ。 好きだと言われたらきっと私だってその人を好きになれる。そうに決まってる。
きみの右目への恋でした
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