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 先のバーミリオン星域会戦終結の折を受けて召集された合議の帰り道、カスパー・リンツは恋人の部屋へ足を向けあぐねていた。

 彼がメルカッツ提督率いる架空の戦死者たちの列に加わることに志願した動機に偽りは無かったし、ヤン・ウェンリーある限り、ヤン艦隊再集結の日もいずれは来るだろう。
 ただ、その日が来るまではおそらくは平和な日々が同盟領には訪れるであろうというところが問題なのだ。このようなことを口に出せば危険思想とでも揶揄されるのだろうが、真実、イゼルローンを離れる段になって恋人とは意見が割れる可能性があった。それがリンツには気がかりでならない。
 メルカッツ提督の艦隊に加わるということはデータ上では死人扱いになり、その上行き着く先では生存を気取られないようおそらくはひっそりと慎ましく暮らさねばならないということなのだ。果たしてヤン艦隊の気風に芯から染まっている彼女が何も言わずについてくるか。

 彼女が自分に向けてくれる愛情に疑いを持っているわけではないのだ。リンツは恋人の部屋のドアに合鍵を差し込んで、余計な物思いを振り払おうと努めた。
 そう、問題なのは、愛情云々の前に彼女の理性の根底をかくも容易く揺るがす男が存在することなのだ。そのひとがいるために、リンツの最愛の恋人は残留の意思表明をしかねない。これが敵視せずにおれるものだろうかと、リンツは会議中ただひとり紅茶をすすっていた総司令官の姿を思い浮かべた。
 彼女の崇拝する、かのヤン提督と自分とを天秤にかけて自分の方に比重がかかると信じきれないところが、リンツには情けなくもあり、辛くもあるところであった。


 室内は薄暗かったが、寝室のドアが半ばほど開いているのを確認したリンツはためらいもなく足を踏み入れた。この際、彼女の返事に余計な期待も悲観もするまい。彼は自戒を改めてこめかみの近くに刻んだ。
 ついて来てほしいと思うのが、そもそも手前勝手な申し入れなのだ。シングルベッドに力尽きたように横たわった人影が、彼の訪問を受けて、人の気配に敏感なその人らしく身動ぎをした。

「………カスパー?」

 かすれた声は小さく彼の名前を呼ぶ。やや遠慮がちに、まだ彼の名前を呼びつけることに不慣れであるかのように。
 そうして薄暗がりの中に浮かんでいるリンツの輪郭に、その女は剥き出しの白い腕を伸ばした。まだまどろみの海をかき分けてでもいるように、彼女のその腕は頼りなくひらひらと恋人の指先を求めて揺れる。

「ここですよ」

 まるで見当違いの方向へ振れた、細い指先を捕まえて、リンツは彼女の呼びかけに応えてやった。ベッドサイドに膝をついて、横になっている彼女と目線の高さを合わせる。暗がりでも、はっきりと彼女の両目が開かれていることを視認できた。濡れたように光る黒い目だった。

「おかえりなさい」
「……ええ」

 ここは彼女の、リンツの恋人である苗字少佐の部屋である。おかえりなさい、とはまるで的外れな一言であるはずなのだが、リンツには口の端がゆるむような言葉だった。どんな厳しい戦闘の後でも、彼女のこの一言を聞きたいがために足しげく通うほどなのだ。どのような場合でも例外はない。この恋人に帰りを喜んでもらえる。それだけで嬉しいのだ。
 これを、どうしようもない惚れ込み方だなどと他人が評するのはとっくの昔に聞き飽きた定評となっているし、当人も自覚している。

「何か深刻な話でも?」
「……どうしてわかるんです?」

 "薔薇の騎士"連隊第14代連隊長の一歳年長の恋人は、胸までをシーツの間で起こすと年下の彼に顔を寄せた。鼻先を相手の高い鼻梁にすりよせて、眠たげにとろけた甘やかな声音で、かしこまってるから、と意地悪げにささやく。じゃれるように、幾度か唇の先がふれあった。

「実は、メルカッツ提督の艦隊に随員することになりました。ハイネセンへは、帰りません」

 リンツは、彼女の黒い睫毛がわずかな動揺と連動するようにふるえるのを、間近に見た。苗字の頼りなげな腕は、まさに恋人のたくましい肩を引き寄せて絡みつき、ベッドの上に引きずり込もうとしているところである。
 一瞬の凝固の後、彼女はあっけなく行動を再開し、そんなことは知らないとばかりにリンツの唇に掠めとるようなバードキスを繰り返した。

「例のデータ改竄の件ということですね」
「そうなります」

 彼女の口調だけがわずかに覚醒に近付く。苗字少佐は事務的な内容を口に出しながらも男をベッドに引きずり上げることに成功していた。

「困ったな」
「…何がです?」

 リンツは、加減なくのしかかれば潰れてしまいそうな彼女をやんわりと組み敷いた格好のまま、恋人の不穏な切り口に敏感にならざるをえない。
 こちらから切り出す前にふられてはたまらないな。
 彼女が拒まないのをいいことにして、不安を具現化されたくないがために、言葉を遮るようなつもりでリンツからキスを繰り返していると、不意に顎に手をかけられて制された。

「データ上とはいえ、死人扱いではね。家族に事情を説明するのに手間取りそうだわ」

 にや、と女の口元が弧を描く。期待も悲観もするまい、と自戒した数分前の記憶と、リンツはその時点で再会した。

「…意地が悪いんですね」
「言ってくれないからですよ。それとも、私はハイネセンに残留ですか?」
「来てくれるんですか、おれと一緒に?」
「あなたが来いと言ってくれたら、もちろん」

 苗字の手は優しく恋人の薄い色の金髪に差し込まれて、後頭部に回る。乾燥した男の唇をついばむ彼女の口元は変わらずうっすらと微笑をたたえていた。

「てっきり、そんな退屈なところには魅力を感じないからと断られるかと」
「心外ですね」

 声音にはっきりとした不満の浮かぶ一言を発すると、彼女はゆっくり上半身を起こした。向き合ったリンツの顔に空いた左手を添えて一つ撫でると、たくましい肩にその手を改めてかけ直す。

「来るなと言われない限り、一緒に行きますよ」

 自分を組み敷いているリンツの身体をベッドの逆側に押し倒した苗字は、彼の腰にまたがって狙いすました甘い声で言った。腿で挟み込んだ男の胴を、彼女はことさら意識的に小さく締め上げる。女性の身体というものはどうしてこうどこもかしこもやわらかいのか。彼女の部屋着の開いた襟ぐりから見える、それこそ見せつけるような谷間から申し訳程度に目を逸らしながら、リンツは苦笑を禁じえない。これが男の煩悩に対する彼女からの意図的な攻撃であることは彼も重々承知である。
 せっかく強気な恋人を押し退けるのは野暮に思えたので、リンツは相手の細腰を片腕で簡単に落とし込み、自分の上でその体勢を崩させた。隙間なく胸まで密着すると、彼女は待ち構えていたように脚を絡ませてくる。強気なときはとことん強気なこの年上の恋人が、リンツはいとおしくてしようがなかった。根からこのような行為に向いているわけではない彼女のことだ。あとからどうせ、軽率なことをした、などと自省の殻にこもってしまうのだろうから、積極的になっている今の内に存分にやらせてもらおう、というのがリンツの腹積もりであった。
そうと知らず、苗字は年下の恋人が自分のこめかみに唇を寄せる感触のくすぐったさにわずかに身をよじりながら、リンツのプラチナブロンドに指を通している。

「おれと来てください、名前。退屈させないと確約はできませんけど、少なくともおれはあなたのそばにいます、いつでも」

 苗字は即答しなかった。男の、たくましい体躯に不釣り合いなほど繊細な髪に指を絡ませて弄び、しばらくしてようやく、試すような沈黙を破って彼の名前を呼ぶ。

「私があなたのいないところになんて、望んで行けるものじゃないってご存知なかったかしら?」

 どうしようもなく甘い声で、彼女はリンツの耳元にささやいた。










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