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「なあ、名前」


手元の泡を掴んで潰した。ドアの外側から浴室に響く男の声はいやに優しくて、私はのぼせてもいないのに目眩を催す。自分の濡れた髪に指を絡めて引っ張る。まだ出てこない気かよ、と政宗はさっきよりもずっと小さい声で言った。あと五分。


「お前の五分は十分だろうが」
「体内時計に誤差は愛嬌だよ」
「誤差五分はでかいぞ。……なあ、機嫌直せよ」


すがりつくみたいにみっともない声が聞こえて、私は後ろを振り返った。すりガラス越しに、政宗がドアに背をもたれている輪郭がはっきりと見える。ジャグジーの風呂に広がったベリーの匂いがする白い泡を、手元にある分だけ両手ですりつぶして、その声をはぐらかした。私と付き合い始めてから、この男はずいぶんみっともない。惚れた女にすがりつくことを少しも躊躇わないのだ。みっともないけれどいとおしい。
なのに、一方の私はといえば、誰かを好きだと思う自分の気持ちに潰されかけている。私の心は私が思うほど強くなかった。好きだと思って付き合って別れて、そんな単純でありがちなことに振り回されている。誰かを好きになるって普通じゃない。……正気じゃない。
あの日からおかしい。私はどうかしている。まさかこんなに長続きするなんて思っていなかった。でもそんなのは言い訳で、私は、いつか私がそうしたように他の女に同じように政宗をかっぱらっていかれる気がして怖いのだ。だから一度の浮気を許せない。


「政宗」
「ん?」
「寒い」
「湯の温度の上げ方、分かんだろ」
「分かるけど」


ねえ、と私が猫なで声を出すと、政宗はようやく気付いてドアを開けた。立ち込めていた湯煙がさっと室外へ逃げていく。私は振り返らなかった。手の中で泡をもみ消して、政宗の裸足の足音がひたりと背後に迫るのを聞いていた。


「…悪かった」


消え入りそうに言って、政宗の腕が私を背中から抱き締めた。初めてそういうコトをした日に、この男を猛禽のようだと思ったのに、そんなことを忘れてしまいそうなくらい優しい腕だった。


「服、濡れるよ」
「構いやしねえよ」


本当は謝るのは私も同じだ。浮気された腹いせに思い切って私も浮気をした。私たちはよくもこんないつ破滅したっておかしくない関係を、よくも続けてこられたものだ。カッとなってバカなことをしなきゃ良かった。いつまでも彼が許してくれるわけがない。私はきっと彼を許してしまうのに、彼が私を許さなくなる日はいずれ絶対に来るのだ。


「俺を見捨てんなよ、名前」


首筋にやさしく唇が押し当てられる。肩をしっかりと捕まえられて私は動けなかった。
やわらかい黒髪が頬に当たって、私はきっとこの男を許さないでいられないだろうな、と改めて実感する。人を食うような男の、内側のやわらかい弱所を私が知っていることだけで優越感を満たされているのだから私も安い女だ。


「謝るのは、私なんじゃないの」
「かもな」


政宗の腕が私を正面に向き直らせて、改めて抱き寄せる。泡と湯でぐっしょりと濡れた私の身体を、ためらいもなく。
すり寄せた頬に政宗の右耳のピアスがひやりと冷たい。ごめんね。呟いた声がくぐもった。私の耳元に優しげな低音が好きだとそれだけをささやく。
濡れた腕で抱き締めた痩躯を慈しむつもりで左の瞼にキスをする。眼帯を外す私の手を政宗は咎めなかった。右目の傷を取り繕わなくなった彼がいとおしい。
好きだと思って付き合って、でもこのあと別れることになるのは怖い。こんなにありがちなことに振り回されている。


「それが普通ってことだ、フツウ」
「普通ねえ」



好きな人に好かれていて好きな人だけを好きでいる。こういうのが、なに、世に言う普通ってやつ?



………それならどいつもこいつも正気じゃない。
いとおしすぎていつかきっと、胸が潰れてしまう。







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