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隣の部屋にイケメンが引っ越してきた。
彼氏(仮)とふたりで借りてるちょっと高めのアパートの、その隣の部屋に彼はやって来た。二、三日前からやけに業者が出入りするなとは思ってたけど、別に隣人が挨拶回りに来たわけではない。彼氏の知らないところで私がなぜ彼をイケメンと知ったのか、つまりそれは単純な偶然だ。

私が出かけようと開いたドアに彼がぶつかりかけてとっさにドアを片手で押さえた。私はドアが進まなくて驚いて、ドアの影から、すいませんぶつかりそうになったもんで、なんて言いながらひょっこりイケメンが顔を出したものだからもう一回驚いた。
ちなみにそのとき彼氏(仮)は仕事で留守。思わぬイケメンの登場と、隣に越して来たんです、の一言で私はすっかり舞い上がった。バカみたいに朗らかに自己紹介してよろしくお願いしますなんて言って、お互い会釈して普通に分かれたあとの買い物で買いたかったものを三つくらい忘れるほど私は浮かれた。

そもそも、私が彼氏を彼氏(仮)なんて呼ぶのには理由がある。これは私がイケメンの登場に浮かれたことと関係している。

何と言っても私は、あの男の浮気相手なのだ。ほとんど飼われていると言っても過言ではない。もちろん家賃は半分ちゃんと納めてはいるけど、あいつがちょっと多めに払ってくれていることは知っている。しかしそんなお優しい、社長子息で有能な彼にはちゃんと、親が定めた上に当人同士も納得済み且つラブラブな婚約者がいるのだ。よくあるつまらない話なのである。
学生時代は彼と結婚するかもなんて思ったこともある。しかしまあなんとも短い幻想だった。実情というものがドラマでよくあるベタな展開そのもので、いっそ脱力した。
今は実情なんて知らないふりをして、あっちがこっぴどくフラれた形にするにはどうやろうと考えていたところに、例の隣人が現れたわけだ。私は己の悪運に万歳三唱したくなった。


「昨日、隣に引っ越してきた人初めて見たんだけど、超イケメンだった」
「……お前には同棲してる相手がいんだから、縁無ぇだろ、イケメンは」

ソファの背もたれに後頭部を倒して、政宗は私を見上げた。ポーズだけでも、そう腐っても私たちは彼氏(仮)と彼女(仮)なので、私はその政宗の長い前髪をかき上げて、顕になった額にキスをする。
たぶん仕事だと言って昨日帰って来なかったのは実家の方にいる婚約者のところに行ったのだろう。私はこいつのことを、割と隅々まで知っている。

「縁無くてもキャーキャー言いたいじゃん」
「言うな。腹立つから」
「妬いてんの?」
「妬かねぇよ。お前が俺のこと捨てるわけはねぇしな」

余裕だね、と私がちゃかすと政宗がキスを返してくる。ホント、余裕だね。
これからいくらでもあの隣人と隣人愛を深められる私を知らないのだ。まあいつまでもそうやって愛人と本妻の間をうろついていられると甘く見てればいいさ。浮気相手に浮気されるなんて惨めだろうね、とまだ捕ってもいないけど私は皮算用なんかしてしまう。




私は隣人が喫煙者だということを知っていた。ベランダで吸っているらしくて、風向きによっては紫煙がうちの方へ流されてくるのだ。
だから政宗が"お仕事"でいないときと隣人の喫煙が被るのを待った。
案外その日はあっさり訪れて、私は隣人の前田さんを捕捉。
コーヒーをふたり分淹れてベランダに出た。隣室との仕切りの向こう側で、ベランダのへりから喫煙者の煙草を持つ指先がはみ出している。
一度深呼吸をして、仕切りから顔を覗かせ、こんにちは、と声をかけた。まるでタイミングまで予期していたように私の方を向いていた前田さんは、平然と挨拶を返してくれた。

「コーヒー飲みます?」
「悪いですって言いたいけど、もう持ってるんですね」
「あー…この間ドアぶつけかけたんで、お詫びしようかと思って」
「じゃあ、ありがたく」

彼はひどく優しげに笑ったのに、それはふと影が差すようなニヒルな表情にも見えた。いい男だなぁ、と思ってカップを手渡す。受け取った相手の手がきれいで思わず見惚れた。そういえば私は政宗とまだ友達だったときにも、あいつの手に魅入られたことがある。もしかしたら手フェチかもしれない。
コーヒーをすすりながら、しばらく煙草って美味しいんですかなんてどうでもいい話をして、同年代ということが分かったのでお互いに敬語いりませんよ、という流れになってから、私はちょっと気になったことを口に出した。

「もしかして、話しかけようとしてるの気付いてた?」
「………実は深呼吸してるの、聞こえちゃったんだよね」
「…お恥ずかしい限りです」

これは本当にそう思って言った。すると慶次くんは灰皿に煙草を押し付けながら、ちょっと声を立てて笑った。ハハッ、って。すごい爽やかに。あいつには真似できないな。彼氏(仮)の顔が浮かぶ。でも煙草の火みたいにその見慣れて飽きた顔を頭の中でもみ消して、慶次くんは何してる人なの、と訊いた。
彼は端的に美容師、と答えた。私は、じゃあ火曜日はお休みだね、と応えた。
彼は少し黙って、仕切り越しに私を見る。残り少ないコーヒーはすっかり冷めている。

「名前ちゃん、少し髪、伸び気味だね」

そう言って伸ばされた、大きいのに繊細な作りの手が私の前髪に少しだけ触れた。この人すごい女たらしだろうなと思ったけど、まあいい。その方が都合は良かろう。彼は動かない私にだめ押しのようにもう一言追加した。

「来週の火曜にさ、もし良かったら俺に切らせてくれないかな」

わざとらしくためらって見せたのは単なるポーズで、二つ返事だと軽いと思われるかなと思ったせいだった。ザマを見ろ伊達男め。お前が悪友からスタートしてキープし続けたバカ女はついにお前の手元から消え失せるのだ。ザマぁ見ろ!






何一つ滞りなかった。私は火曜になると隣室にお邪魔して髪を切ってもらった。そのときにとりあえずキスはした。切り終わったあとにほぼ雰囲気で。タダで切ってもらってありがとうなんてふざけ半分に言ったら彼は玄関先でドアの鍵を開けかけた手を止めてまたキスをして、お礼はしてもらったから、と笑った。
それから1ヶ月くらい、慶次くんの家へは頻繁に行った。もはや通った。まだ子供のお遊びみたいな関係だ。でも時々慶次くんが見せる影のある表情に、私は俄然やられていた。ちなみにこの1ヶ月の間でとっくに私が隣室で男と同棲していることはバレていた。慶次くんはだから、私に積極的には手を出そうとしない。でもキスはするし膝枕もするし抱きしめたりもする。
それでも性懲りもなく私は毎回慶次くんの部屋から政宗の部屋へ帰った。政宗が既にいるときもあればいないときもあった。あんまり疑われないのは、この男が私に興味がないからか信頼されているのかどちらだろうと考えてみたけど、多分何にも考えていないだけだ。多分。だから私もセックスが疎かになっていることを考えなかった。政宗とはもうしないだろうな。細い輪郭が横で寝ているのを眺めて思った。




豪雨の日だった。政宗は仕事から帰っていなかった。今日は必ず昼までに戻っているからと聞いていたのに、あいつはいなかった。メールをしても返ってこない。
ついに約束まで破るようになった。これまで約束だけは違えて来なかったあの男が。ついに終わりだ。私はきっちり鍵をかけて部屋を出た。隣室のインターホンを押す。今日は火曜だ。慶次くんが女を連れ込んでいなければ出てくれるだろう。

「どうしたの、昼間から来るなんて珍しいね」
「鍵、忘れちゃって」

慶次くんは多分、私が慌ただしく施錠した音を聞いただろう。なんたって壁はあんまり厚くない。私も隠す気は大して無かった。きっかけがあれば充分だったのだ。慶次くんは普段朗らかな表情を浮かべている端正な顔に奇妙なほど艶っぽい影を落として私を見ている。

「いいよ、おいで」

彼の商売道具の手が手首をやんわりと包んだ。部屋に引っ張り込まれてドアが閉まる。私は背中をドアに押し付けられて、慶次くんの手は施錠と私の脱衣の手伝いで忙しない。首に腕を回すとたくましい腕が私の身体を締め付けた。名前。ずしりと低い声で彼は呼んだ。身体をまさぐる手は止まらない。色気のある声に身体をしている人だ。久しぶりに政宗以外の男とこんなことをした。そんなに厚くないドアの外では雨がコンクリートを叩く音がしている。あいつ、傘なんか持ってったのかな。慶次くんの部屋の玄関であられもない格好になりながら私はまだ政宗のことを考えていた。




「服着なよ、名前」
「着ちゃっていいの?」
「……着ないのかい?」
「私の服、全身彼氏に買ってもらった物だけど、いい?」
「…………全部って、全部?」
「あの際どい下着もね」

私よりあとにシャワーを浴びて戻ってきた慶次は、服を着ないままベッドに戻っていた私に呆れてそれから若干ラウンドを重ねる気でいたようだった。でもさすがに服は全部彼氏のチョイスですなんて言われて引いたらしい。あの部屋で完全に私の持ち物だったのは私の身体だけだ。そりゃあ引くだろう。私はあいつに寄生してきたのだから。
慶次はスウェットの下だけ履くと同じベッドに入ってきて、雨すごいな、と他愛ないことを口にした。
私は相槌を打って、携帯を開いた。政宗から珍しくメールがきていた。"今どこだ"。たったの四文字だ。怒っているんだろうか。とりとめもない、今は確認しようのないことを思い巡らして、大学時代の友達の家に泊まるという主旨で政宗のメールに倣い絵文字顔文字0で本文を作成。政宗が今いるであろう406号室のすぐ隣、407号室の寝室で、私は送信完了の画面を見送った。


雨が降っている。あいつは私に裏切られたと知ったらどんな顔をするだろうか。





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