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「止めたいに、決まってんだろ」


見上げるような長身の少年が言った。皆で一斉にかかってようやく倒すようなあいつと一騎打ちしようだなんて、それではむざむざ死にに行くようなものだと。

あの男は私を殺すだろう。あの女の面影の残るこの顔を見て迷いなく。


「……行くなよ」


長い前髪の下で彼の双眸が翳りを帯びた。
ハスタが、私をテノス付近の遺跡に呼びつけたのは、二日前のことだ。二日後、この遺跡に来いと、私だけを見てあの男は言った。殺しあうしかないのだ。前世の因縁に引っ張り回されて、大して憎いとも思っていないのにそれでも。

「きみは優しいね」


私は手を伸ばして、スパーダのベレー帽を押し下げる。彼は一言、ちくしょう、と毒づいた。




宿の外に出ると、雪はまだ降っていて、指定の場所に辿り着くことさえ途方もない道のりに思えてあっという間に嫌気が差してしまった。ジャケットの上に更に羽織った防寒マントの襟を引っ張り合わせて、路上に積もった雪をざくざく踏みつけて歩く。静まり返る街を出た。
例の遺跡に着く頃には、顔も手も氷みたいに冷たくなっていた。こんな状態で戦うなんて、秒殺でもおかしくない。鼻の奥がつんとして痛い。息を吸うたびにパリパリと音がする。鼻水が凍っているらしい。階段の上り下りを繰り返しながら、徐々に重く感じられるようになってきた槍を持ち直す。早く終わらせて、帰って温かいシチューが食べたい。本当は、できるなら、あいつを殺さないで済ませられたらいいのにと言えずにずっと考えていた。どう転んだってそんなことはできなさそうだと今さらのように実感する。あいつは、殺す以外に退ける方法が無い。

遺跡最奥の、記憶の場がある祭壇広場。淡く光る記憶の場の、まさにその上に、ハスタは居た。景色が死んでしまったように真っ白な雪で埋まったそのただなかに、まるで血溜まりみたいにべろりと広がって、大の字で寝ている。


「呼び出しといて、まさか死んでないでしょうね」


ばったりと倒れた赤い服の男は、首だけぐらりと持ち上げて、声をかけた私を見た。


「ようやくお出ましかい?そろそろ寒くて、さすがのオレも死ぬかと思ったぽん」
「いいよ、そのまま死んでくれたって」


一度立ち止まると急にどっと疲労が感じられて、槍を石畳に突き立てて杖代わりにして寄りかかる。ハスタはバネでもついているのかと疑うような身のこなしで起き上がると、傍らに転がっていた赤い槍を手に取ってこちらに向けた。降り続いている雪の中で、ハスタのピンクの頭と衣服がやけに浮いて見える。


「さっさと構えないと、問答無用で惨殺刑にシてしまいますぜ、お嬢さん」
「この寒いのに元気ね…」


のろのろと槍を構えると、ハスタは口を三日月形に曲げて笑った。私もこうなってようやく、かつての自分がそうだったように、皮の下の血が滾っている。殺すのも殺されるのもいつだって怖かったはずなのに、自分でないものの記憶に、未だにこうやって縛られているのだ。


「そうそう、その目だ。オレはその目が、むかあし昔からそれはそれは…」


言いかけてハスタは急に口を噤んだ。そしてにんまりと笑ったようだった。雪がちらつく中で視界がぼやけて、ハスタの顔はよく見えなかった。私は下唇にギリギリ歯を立てた。この期に及んで、目の前の私よりも前世の女を見ている男に腹が立った。寒いし、身体中痛いし、ハスタはにやけている。帰りたかった。こんな私の心配をしてくれる仲間たちのところに帰りたかった。スパーダはまるで今生の別れみたいな顔をしていたから、早く帰ってからかってやりたい。それで、それから、お礼が言いたい。昔ゲイボルグの使い手だった私を許して受け入れてくれて、その上、行くなと言ってくれた。あの異常者のところへは行くなと。
それがどれだけ嬉しかったかなんて言うつもりはないけどせめて、ありがとうと言いたかった。


祭壇の柱に背中から激突した。声も出なかった。ハスタが、柱に槍の穂先を突き立てる。身体中が痛かった。ハスタは、いつもの小うるさいお喋りをいつの間にかやめていた。目を上げると、槍の柄を掴む手を徐々に滑らせて短く持ち直しながら、ハスタが顔を近付けてきている。寒くて歯の根が合わない私と対照的に、奴はまっさらな無表情だった。何も感じていないような顔だった。


「オレと戦ってる最中に他のこと考える余裕なんか、お前にあんのか?なあ?」


疲れきってだらりと下げた腕を、もう持ち上げられなかった。終わりかもしれない。そう思ったら息が詰まった。ハスタは愛槍を持っていない方の、さっきまでぶらぶらさせてたような片手を、ガラにもなくそっと私の首に添える。存外熱い手だった。ハスタのくせに人間みたい。面白くもないのに笑いそうになって、口角が上がらないことに気付いた。目の奥のほうでちかちかと赤い光が点滅している。


「しかも、男のことだろう?ん?感心せんなー、今お前さんと切り結んでいるのは誰かね?言ってご覧」


だったら。だったら何だと言うんだ。
脳裏に、スパーダの苦々しげな一言が蘇る。ちくしょう。彼は悔しげに言ったのだ、止めきれない自分になのか、融通の利かない私になのか、それともハスタに対してなのか。
あんな顔をさせたのが私かハスタであることは間違いなくて、ならば私は、私を止められなかったと彼が自責することがないように生きて帰るべきなのだ。

睫毛にまとわりついた氷を振り払うほど強く、両目を見開いた。脈拍と同じリズムで赤い明滅は続いている。
槍の石突きでハスタの鳩尾を突く。不意討ちだったせいもあってか、ハスタは私の首を放したし、押されて積雪の上へ倒れた。私は勢いに任せてその奴の上に馬乗りになる。槍を回して穂先を向ける。足の間にあるハスタのわき腹は、動き回っていたせいか服越しにも熱かった。終わりだ、終わりになる。なのに、それこそこの期に及んで、刃先を振り下ろす場所を迷ってしまう。
こいつが憎いわけでも殺したいわけでもないのだ、本当は。みんなが言うほどには、この男を嫌えない私は破綻しているのかもしれない。前世を引きずったまま、未だに相手を求めてるのは、本当はハスタではなく私なのだ。
涙が出た。負ければ殺されると確信しているくせに、自分からは殺せないなんて、こんな茶番はない。スパーダは、私にそもそも勝機を探る気持ちがないことを分かっていた。だからあんなに。

穂先を雪の積もった石畳に突き刺すと、ハスタが薄笑った。殺さないのかと問いたげなのに、ハスタは何も言わなかった。頬の上で、涙が凍ってきりきりと痛む。槍にすがったまま動けなかった。

「甘いぜお嬢さん、砂糖菓子の蜜漬けのように甘いぜそんなご傷心な顔は」


ハスタは槍を放り出すと、片手で私の首の裏を包んで引き寄せた。嗚咽を漏らしていた私の半開きの口にかぶりつく。まるでちゃんとした人間みたいに体温のある舌が入ってきて私の冷たくなった歯をなぞった。そんな甘ったるい食べ物の味を知ってるのかよとどうでもいいことを考えて呆然としていたら、ハスタの顔面のすぐ横に突き立てていた槍が引き倒された。釣られた私は改めてハスタに胸からダイブして、その身体の上に覆い被さった状態のまま逃げられなくなった。しんしんと降りしきる雪が石畳に、私の身体に積もっていく。身体と身体と境目がわからなくなるほど芯から冷え切っている。

唐突にハスタが上半身を起こした。押し上げられた私の身体もされるがまま一緒に起き上がる。ぬらりと熱い舌が唇を撫でて離れた。こつ、と頭突きというほどでもなくハスタが私の額に額を合わせる。びっくりして目を見開いてる私の目の前で、ハスタは瞑目している。


「ハァー…しんど。殺さないのしんどいですわー」


ハスタが呟いた声は不気味なほど静かだった。首の裏を押さえつけていたハスタの手が凍ってはっきりと筋になった涙のあとを触る。人間みたいなことをしないでほしいとか、ただの男みたいな顔をしないでほしいとか、ぐるぐる考えた末にフリルがふんだんに付いた胸ぐらを掴んで、私からハスタにキスをした。目の奥で続く点滅に、いよいよこめかみが割れるようにズキズキと痛みだしている。頭を打ったせいだ。こんなことをするのも言うのも何もかも。

「ひとつ、教えてあげるよ」
「なに?つまんないことだったら犯しマスよ」
「私があんたのことを殺さないのは、生かすのも愛なんだって知ってるからだよ」


口走ったあと、何を言ってるんだと後悔する前に限界がきた。意識が浮く。相手の胸に倒れ込んだ私が最後に思ったことといえば、どうでもいいお別れの言葉だった。
さよならまた来世。次遭ったらそのときは。



←↓→




目が覚めたらテノスの宿だった。イリアが真上から私を見下ろしている。目が合った瞬間、彼女はカッと目を見開いて般若のような恐ろしい顔をした。とっさに謝ろうと口を開きかけたのに、うまく呂律が回らない。


「やっと目ぇ覚ましたのね」
「あの、ごめん…おかげさまで死んでないです…」
「あんたねぇ、あんまり縁起でもないこと言ってふざけてんじゃないわよ」
「ぎゃ、痛いごめんなさいごめんなさい」


イリアにグーでこめかみをぐりぐりやられて悲鳴を上げていたら、アンジュが部屋に入って来て目が覚めたのね、と優しく笑ってくれたが、すぐに正座を命じられて説教が始まった。
しばらくするとエルマーナが様子を見に来て、ただいまと私が言ったらのほほんと、帰って来たときほんまびっくりしたんやでーと片手をひらひらやった。


「ご高説賜わっている最中にすいませんアンジュ。私、どうやって戻って来たんでしょうか」
「スパーダ兄ちゃんにお姫様抱っこされて帰って来てんで、名前姉ちゃん」


エルマーナはけらけら笑って言った。ハスタの上に倒れこんだところまでしか覚えていない。
彼女たちが言うには、ルカとスパーダがどうやらハスタとの一騎打ちの最中に昏倒した私をハスタから引き剥がして連れ帰ったということらしかった。
あいつは結局私を殺さなかったのだ。じわりと涙が湧いてくる。もうあの目の奥の光や頭痛は遠ざかっていた。

人間臭いことをされると困る。どうせまた会ったら、そのときこそどちらかが死なないと収まらないのに。
きっとイカれてる。
泣き出した私を見て三人はどこか痛むかと口々に聞いて心配してくれたけど、痛いのは心だけだった。命を絶つ以外に何の手段も方法もない彼に、愛しているから生きてほしいなんてひどくばかな、おそろしいことだったから。




熟れるヘムロック

「あなたは私の命取り」

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