レポートやら何やらでパソコンと向かい合っている時間が長くなってきて、最近肩が凝っている気がする。 会話の端にちらっとぼやいたようなことを、 彼はなぜかとてもよく覚えていた。
「少し習ったんだ」 そう言った彼は、肩の可動域を広げる整骨とやらを私に施してくれるという。 仰向けに寝て両膝を立て、 両腕は胸の上で交差する。正面からほとんど抱きしめるような形で、 私の肩甲骨とマットレスの間に彼が腕を差し込んだ。 「頭上げて」 そう言われてはじめて私が躊躇ったのを彼は察したらしい。 後頭部に手のひらが添えられ、 有無を言わさず頭を上げさせられる。彼の肩越しに白い蛍光灯の光をじっと凝視して、 私はこの状況にやましい考えを起こしそうになっている自分を諌めようと努めていた。 「いくぞ。……息吸って、吐いて」 ゆっくりと深呼吸する。彼の腕が狭まって、ぐ、と圧が加わった。上半身が浮く。圧迫が強まった一瞬、首の付け根の下あるいは肩甲骨の間のどこかの骨が、ごきん、と鈍い音を立てた。 「うあっ」 喉の奥から、 呑み込む間もなく声が飛び出す。 清瀬がかすかに含み笑いしたのが聞こえた。 身体を放され、起き上がる。 「……殺されたかと思った」 「死ぬ瞬間にずいぶん色っぽい声を出すんだな」 「冗談きつい」 私も笑ったが、清瀬は何か言い足りなさそうな顔で私の首の付け根の下へ指を滑らせた。 「ここだろ?」 脊椎の何番目かの隆起。先ほど妙な音が鳴った場所を的確に、彼の人差し指が捉える。 彼が当然のことのように私に触るたび動揺しているのに、なぜだかそれを彼に悟られてはいけないような気がしていた。清瀬の、さらっとした、こんなこと何でもないみたいに汚点のないさわやかな顔を見ると、自分がとても浅ましく思えて。 とはいえ確かに指摘を受けたそこを起点にして、心なしか肩が軽くなったような気がする。 「うん。楽になったかも」 「それならよかった」 私はベッドから降りて、キッチンへ向かう。彼にコーヒーをいれるためだ。ケトルに湯を沸かし、マグカップを出す。 「ねえ、インスタントだけどいいよね」 振り返ると、清瀬はまだ私のベッドに座っていた。 「うん? ああ」 生返事だった。視線は私ではなくどこか遠くを見つめている。 首を傾げつつ、マグにインスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐ。香ばしい匂いが立ち上ってくる。ふと思いついて、自分の分には砂糖を加えた。 「ぼーっとしてるね。疲れてる?」 清瀬の隣に腰掛けながら訊ねる。 「いや……」 コーヒーを受け取った彼はやはりまだぼんやりして、「なんでもないよ」と曖昧に答えた。 竹青荘での部員の世話を一手に引き受ける清瀬は、たいてい夕方には寮へ帰っていく。16時を少し過ぎた今くらいの時間帯は、彼が帰宅するかどうかの分水嶺だ。どうせ帰路の途中の商店街の特売や夕飯の献立、明日以降のトレーニングメニューのことやらを考えているのだろう。 「寮戻ってからのこと考えてるでしょ。帰ってもいいよ?」 私が言うと、彼は目を伏せたまま、口元だけで笑ってみせた。 「そっちこそ俺のことを追い出したくなってないか?」 「まさか」 「じゃあもう少しだけ居させてくれ」 そう言って清瀬は再び沈黙し、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。 手持ち無沙汰にスマホを取った私を横目に見て、ふと清瀬が口を開く。 「なあ、思ったんだが」 「なに?」 「俺にはやましい気持ちがないと思ってないか?」 「え」 思い切り図星を突かれて言葉を失う。彼の目を見返すことができずに俯くと、視界の端で彼が身体をこちらへ向けたのが見えた。 「あのさ」 耳元で囁かれた声が鼓膜を震わせ、続く言葉もなく清瀬の顔が近づいてくる。指先が頬に触れ、顎をなぞり、私の髪に差し込まれる。胸が破れそうに慌ただしく動悸がしていた。 さっき整骨を施したときと同じように私の身体を抱き込んで、清瀬がゆっくりと唇を合わせてきた。 「ん」鼻にかかったような甘い吐息が口から漏れ出る。私は羞恥のあまりに身を固くして、ぎゅっと目を閉じたままそのキスを受け止めた。彼の腕が、私の背中を撫で下ろす。 「時間、平気なの?」 離れた唇の間でささやいた私に、清瀬が答える。 「まだ大丈夫」 彼の声はいつもより低く掠れていた。 もう一度、今度は深く、舌が這い入ってくる。 息継ぎのために顔を離すと視線が絡んで、清瀬が私の肩口に額を押しつけてくる。私は彼のうなじにそっと指先を下ろして、あやすように優しく撫でた。 物腰が柔らかく、どこか超然とした彼にも、恋人に見せる甘い顔があるなんて。 なんだか信じられないような気持ちだった。彼への片思いが長かったせいで、こんなふうに寄り添うことを許される日が来るとは思っていなかったから、余計に。 髪を指で弄んでいると、清瀬が身じろぎして顔を上げた。目が合う。 「もうちょっとこうしてたいんだけど」 彼が甘えた口調で言う。私は黙って、首筋に顔を埋めてきた清瀬の髪をゆっくりかき混ぜる。 清瀬は私の肌を啄ばみ、舌で舐め、時折強く吸ったり歯を立てたりする。そうしながら少しずつ場所を変えていく。 「痕つけるの?」訊ねても返事はない。「見えるところはやめてね」 彼は答える代わりに、私の胸に掌を当てた。 「ねえ」 「うん」 ようやく口を開いた清瀬の声は低い。私は小さくため息をつく。 「今日はしないよ?」 「わかってる」 私の鎖骨を齧っていた清瀬が体を起こし、そのまま上着を脱いだ。ベッドの下に落とす。しないと言ったばかりなのに。 「こら」 「脱ぐだけだよ」 清瀬は私の服に手をかける。裾をたくし上げ、スカートを引き下ろし、露わになった脚に手を這わせてくる。太腿の内側を撫で上げる感触に私は眉根を寄せた。 「ほんとうに嫌なら止めるけど」 彼は私の下着の中に手を入れながら言う。 「でも、本当にいやなのか?」 「……ずるいなあ」 「なんのことかな」 そう言いながらも彼は手を止めず、私の肩や脚から下着を抜き取ると自分のTシャツと一緒に床に放り投げた。 「あーあ」 「まあ、観念してくれ」 覆い被さってきた清瀬にキスされて、私はせめてもの抵抗に彼の唇を噛んだ。 「いてっ」 小さくこぼした彼が、仕返しのように私の舌に軽く歯を立ててくる。それから笑い混じりに囁いた。 「痛くするぞ」 「……」 私は笑って、けれど黙っていた。 抱きしめた彼の端整な身体の隅々まで、私の指や唇を覚え込ませたかった。清瀬の指先が私をさぐるたび、身体の奥の熱が、じりじりと野火のように燃え広がっていく。 明け透けな欲もなにもかも互いの前にさらして、重ねた肌の間で残り少ない時間が溶けていく。
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