| ナノ



 ドーナツ型のプールを、親子連れやカップルや男女のグループが流れていく。塩素の強い水が髪から滴り落ちて、ぐっしょりと濡れた水着に吸い込まれた。
 小脇に浮き輪を抱えた先輩が、前髪をかき上げた。首にかかるほど長い茶髪と地黒の肌のせいですごくチャラく見える。
 浮き輪にはまって流れている間に、今一緒にいる先輩以外のみんなとははぐれてしまった。
 同じ浮き輪で一緒になって浮いている場面は、もう別のメンバーに見られている。だから何かいちゃついてんな、と思われて、私たちだけウォータースライダーに行く彼らから半分置き去りにされた形なのだ。

「お前、あの爽やかくんとはどうなってんの?」
「……どうともなってないですよ」
 不意に聞かれて、私は彼のいう「爽やかくん」の何でも知ってるぞと言わんばかりの笑顔を思い浮かべた。
 夏は山で強化合宿。有志協力者のお陰でかなり快適。今年こそ箱根に手が届く…………彼はそうやって夢を語るとき、意気揚々というよりは、深く噛みしめるように遠くを見つめていた。顎を引いて、まっすぐに遠くを見る飄々とした眼差し。
 隙のない男が芯からの願望を覗かせたときの横顔に弱いなんて、ちょろい女だ。私は。
「何くんだっけ?」
「清瀬」
「今何してんの、きよせくん」
「合宿行ってます。ずーっと練習漬けで幸せみたいです」
「ふーん……おれらとこんなとこ来てる場合なん?お前」
「遊びたいじゃないですか」
 相手がちらりと横目を使って私を見た。
 本音を探すような、ただ身体を眺めているような、いまいち読めない視線。私自身は相手を見て中途半端なチャラ男と不躾な評価をしたのに、相手からの評価を今まさにその内心で下されているかと思うと居心地が悪かった。
「みんなと合流します?」
 矛先を逸らす質問に相手も、だな、と笑うだけ笑って応じた。
 この体に誇るところがないとは言わない。でも媚びる相手は選びたい。誰といるどんな瞬間にも彼のことを考えているのは、もうどうしようもなかった。
 どうせあの男は──清瀬灰二は、自分の一生懸命な瞬間に精一杯で、私のことをちらりとも考えはしないのに。






 黒のポロシャツと、いつも通りのジャージ。
 かき氷食べに行こう、と誘ったのは私で、彼は軽々しくOKをくれた。深い意味のない誘いだ。彼にとってはいつもそうだ。だからといって私の気持ちが浮わつくのばかりは仕方なかった。バキバキに気合を入れた服装で、運動部らしい気楽な格好の彼の隣に並んだ。

「水越さん、本気らしいな」

 清瀬が言った。彼の口からゼミのOBの名前が出て、私は居心地悪く髪を触った。彼と彼が知り合いだったかどうかも怪しい。でもいつもそうなのだ。清瀬は何でもかんでもよく知っているような顔で、実際、思いもよらないところに人脈を持っている。

「何に?」

 私は彼を見なかった。
 残り少ない日陰を出たくなかった。あと二歩も進めば、黄色く焼け付く日向に踏み出さなければいけない。中天高く照る陽光は、並木道の木立の影を取り上げて、人々のつむじを焼いている。
 行列は私たちの後ろにまだぐんぐん伸びていた。誘ったのは私だけれど、話題のお店などという浮わついた場所に清瀬が付き合ってくれるのは意外だった。

「本気で苗字を落とすから邪魔するなって凄まれたよ」
 のろのろと行列が動いた。くっきりと明確な線を描く陰影の外へ出た途端、痛いような日差しが刺さる。
「先輩が?清瀬に?」
「そう」
 風が吹いた。この風だけが、夏の名残の9月にほんのわずかな秋を匂わせている。
「それ、ばらしていいの」
「お望み通り、邪魔してるんだ」
「ひねくれてんね」
「そうなんだよな」

 清瀬が黙ると私も何も言えなくなった。数メートルの列の先頭が、まだ気が遠くなるほど先に見える。

 私が清瀬灰二を好きなのは、みんなが知っていることだ。当の本人も知っている。その上でスルーを決め込まれている。
 なのに、苗字を落とすと公言している人の邪魔を、清瀬が。会話から汲み取れる意図をつなぎ合わせながら、自意識過剰な結論に導こうとしているようで不安になった。絶対そうじゃん、と思っても甘い。彼はどうせ箱根の本番を終えるまでは告白の一言目も私に言わせてくれないだろう。
 一考の余地もなく、素早く「悪い」と遮られて最後までも言わせてもらえないことを考えたら、全部ばれているにしたって決定的なことは黙っていたい。

「今日、練習ないの」
「するよ。今日の気温が異様なんで夜練多めにシフトした」
「なるほど」

 それもそうだ。いくら体力のある陸上選手でも、人間が熱を出したような気温と日照の中、トレーニングをするのは危険だ。
 暑さでのろのろと相槌を打った頭に、後ろに並んでいる人がずっと差している日傘が当たった。骨組みの丸い先端が、髪の表面を圧して刺さる。乾草のようなにおいがした。相手は謝らなかったし、私もわざわざ振り向かない。

「大丈夫か?」
「平気、ありがとう」

 彼の手のひらが、私の頭と日傘との間隔を離すように、私には絶対に触れないところで回遊する。
 私を心配して見せて、優しくして、どうするんだろう。
 疑問は、ただ私が彼を好きなせいで湧いてくるものだった。こんなに好きにさせてどうするつもりだろう、なんていうのは言いがかりだ。

 ようやく店内に入ってみると女性グループが多い中にちらほらと男女の2人連れがいて、私は、これなら清瀬もそんなに浮かないなと思った。おかしな心配をしていたものだ。女ばっかりの店に男が自分ひとりだったからといって、身を縮めるようなタイプにも見えないのに。
 きめ細かいふわふわの氷にこれでもかとマンゴーやスイカの果肉が載った皿を前に、最初の一言二言「おいしい」とか「最近のかき氷はすごい」と通り一遍のことを言ったあとは黙々と空にしていった。
 私はこの間に何度も「これはデートではない」と自分に言い聞かせなければいけなかった。

 清瀬は単純に上の空だったように思う。私は、彼に向かって何ひとつ突っ込んで聞けない自分のピンポイントな臆病を、こういうところがよくないんだ、と思うだけだった。

「そういえば、楽しかったか?プール」

 会計を済ませて退店した途端、彼が言った。ゼミのOBも含めたメンバーで行った、あのプールの話だ、とすぐにわかった。プールの水流に浮かんだ人の群れと、同じ浮き輪に掴まった先輩の気だるいようなまつ毛の長い目。中肉中背の日に焼けた体。明るい茶髪。別にブサイクじゃないけど、ラクダに似てるな、と思う。水越先輩に対して思うことはそのくらい。

「ふつう。そういえば水越先輩、清瀬の話してた」
「そうか。そりゃ嬉しいね」

 爽やかな皮肉っぽさで笑って、清瀬はちらっと横目に私を見た。
 ふたりきりでかき氷を食べようと、申し合わせたように目が合おうと、距離が縮まらない。この関係に溝を掘ってばかりいる。頬の内側に残る氷の冷たさを、奥歯で噛みしめた。
 帰り道の何でもない雑談の、その中身のなさを笑いながら、また好きだなと思った。


 休みが明けるまで清瀬への連絡を控えた。正確には、一度連絡を入れたものの一向に返事がないのでむなしくなってやめた。そうなると、彼の方から強いて連絡してくることなどない。9月中旬までの長い夏休みの間中、私は彼を忘れて過ごすことに集中した。遊んで、バイトして、たまには実家から一歩も出ずに。
 いつもこうだ。安易に期待するとこうなる。こっちはそんなつもりじゃなかったと言わんばかりにするりと私を避けていってしまう。捉えどころのなさを、私を好きにはなってくれなさそうな彼を、好きになったのだ。それはもうそういうものだからと諦めて、私はなるべく自分が苦しまないで済みそうな過ごし方を都度選んでいくしかない。





 後期の授業が始まって二週間あまり。かき氷を食べに行ったあの日以来、清瀬の顔を見ていない。他の人間関係は進んだり変わったりするのに比べて、何の変化もないのは、たぶん関係後退の一種に数えるべきなんだろう。

「こないだ、お前が彼氏と別れ話してんの見た」

 机の端に座った私を追いやる手ぶりをしたあと、岩倉くんは私がゆずった端の席に座った。色白の面長で、神経質そうな目つき。上背のない痩身。かつては夜な夜なクラブ通いの遊び人、だった。清瀬に乗せられてか半ば脅されてか、柄でもないのに箱根駅伝を目指すことになったと聞いた。今までの友達にはいなかったタイプの彼を、私は会う度まじまじと観察してしまう。
 この人はもともと清瀬の友達だ。友達の友達から出発した割に私たちはよくつるむ。彼との間に挟んだ人物との遅滞する関係性とは逆に、岩倉くんと私の交友はゆっくりと深まっている。

「どこで?」
「学食横のスタバ。正気かよ、あんな目立つとこで」
「私しばらく彼氏いないよ」
「じゃああいつ何なの」
 浮気性の彼氏に対する彼女みたいな詰問口調で、岩倉くんが言う。
「サークルの後輩。彼女に捨てられ寸前なんだって。泣くから愚痴聞いてたの」
 答えた途端、岩倉くんは私の話に興味をなくしてスマホを見始めた。
「聞いといて興味ないのほんとやめて」
「……ついに諦めたのかと思ったんだよ」

 スマホの液晶を見つめたまま、薄い唇が上下する。誰が、何を、と言うまでもなく、彼の言いたいことは不文律として完成していた。
 岩倉くんは、スタバで向かい合った辛気臭い面構えの私と私の後輩を見て、私が長年の片思いをかなぐり捨てて彼氏を作り、結局その男とも上手くいかずに別れようとしている、と思ったのだ。

 私の片思いを、仲のいい人たちはみんな知っている。私が告白もせずにいて、ちゃんとふられていないだけで、たぶん片思いされている本人ですら把握しているであろう事実。
 私は清瀬灰二が好きだ。

「前から言ってるじゃん。お前とハイジは合わない」
「それほんと初期から言ってる」
「ずぼらと完璧主義の組み合わせじゃ、どだい無理な話なんだよ」
「人間としてのステージが違うなとは思ってるよ。だから彼女になりたいなんて言ったことないじゃん」
「大事にあっためててどうすんだよ」

 どうせ叶いもしないのに。岩倉くんは、言外に明らかなその続きを口にしなかった。



「よお、ふたりが一緒なんて珍しいな」

 講堂を出ると、清瀬がいた。お決まりのジャージ姿で、飄々とした面構えにうっすらと笑みを描いている。
 彼の表情を見て、目が笑っていない、と思うことがある。今日もそれだ。

「そんなことないよ。去年くらいから取ってる授業被ってるし」

 そうか、と頷きながら、清瀬は岩倉くんの隣に並んだ。
 昼前の講義が一緒のとき、岩倉くんと私はふたりでごはんを食べていた。単に流れでそうなっていたというだけで、そんなに珍しいことでもない。昼どうする、といういつものやりとりをする前に現れた清瀬を交えて、私たちは自然に一緒になって歩き出した。
 岩倉くんは「ハイジ…あのなぁ…」とぼやくように言ったが、清瀬が彼に向かってにこっと笑いかけると、居心地悪そうに黙ってしまった。

「今さら言うのもなんだけど、おれが一緒でも平気?」
「いいよ、全然。なんで?」

 お互いの笑顔に浮かぶ機微を読み取るような、ほんの少しの間があった。

「てっきり、苗字はおれとは距離を置きたいのかと思ってた」
「そんなことないよ」

 岩倉くん越しに清瀬が言う。彼の真意がわからない。返答をあいまいにした私に、清瀬はまたにこっとした。岩倉くんにそうしたように。
 その顔を見たら「逆でしょ」とは言えなかった。何しろ清瀬の方こそ、私からの好意を自覚して距離感を再考しているような節があった。でも、目元に少しも笑みのない彼には、「どうかな」とはぐらかされる気がした。

 彼の夢に無関心な私が、彼と共有できる感情の少ない部外者が、彼を好きでいるのは不毛なことだ。誰に言われなくてもわかっている。おまえとハイジは合わない?わかっている。そんなことは。




「昼食べたあと時間あるか?話しておきたいことがあるんだが」

 私たち三人がたどり着いたのはキャンパス内の学食ではなく、正門前の喫茶店だった。席について早々そう言われて私は一瞬ぎくりとしたが、「大丈夫だよ」と当たり障りなく答える。

「俺には聞いてくれないのか?」
 岩倉くんの皮肉っぽい声に、
「悪いね。ユキには関係ないことなんだ」
 そう言って、清瀬はコーヒーカップを口に運んだ。

 清瀬が私に話したいこと。想像がつかなかった。

 昼食を終えて岩倉くんと別れ、私は清瀬に連れられて、彼の住まいである竹青荘へ足を向けた。寛政大陸上部の部員寮であるこの建物に、部外者の私が入っていいものだろうか。
 立ち止まった私を見て、清瀬はちょっと困ったように眉根を寄せてから言った。

「とりあえず入ってくれ」
「話しておきたいことって?」

 私は玄関先で框に座り、靴を脱ぐのに手間取るふりをしながら、本題に進もうとした。清瀬のテリトリーに踏み込むのを、今さらになって躊躇していたのだ。

「大事なこと?」

 うん、とうなずいて、清瀬はもたつく私の足許に手を伸ばした。彼の手で事もなげに靴を脱がされて、心臓が跳ね上がる。動揺をごまかすために「ありがとう」と言ったけど、ちゃんと声になったかどうか怪しい。清瀬は微笑を浮かべたまま手を引いていく。

「正直、驕りがあったなと思ってさ」
「……うん?」

 何を言われたかわからずに首を傾げた私から目をそらし、清瀬は小さく肩をすくめた。それから自嘲するように苦笑を浮かべる。

「何も言わなくても、変わらずおれを好きでいてくれるものだと思ってたんだ」

 私は思わず清瀬を見つめ返した。
 そういう話をするつもりなのか。それはそれで構わないけれど──これまで私の片思いに気付いていて、泳がせていたくせに。

「男とプールでいちゃついてる写真が送られてきて、さすがに焦ったよ。しかも夏中ずっと音信不通……おれから連絡しなかったのも、まあ悪かったんだが」

 清瀬は、平板な身体を廊下の壁にもたせかけた。
 私がゼミのメンバーと行ったプールでのことを彼が知っていたのはそのせいだったのだ。みんなとはぐれて、水越先輩と同じ浮き輪に収まっていた私の写真を、誰かが清瀬に送った。そういうことらしい。
 清瀬が部員らと山で合宿に勤しみ練習に明け暮れていた時、私は別に好きでもない男とドーナツプールに浮かんでいた。……でもそのことを、彼にとやかく言われる筋合いなど本来はないのだ。付き合ってもいないし、彼は私の好意をきれいにスルーし続けているのだから。
 それでも、「あれは」と無意味に弁解しようと開いた口を、清瀬が人差し指で制す。
 彼は口許に笑みを残して、ゆっくりとした口調で言った。

「苗字のことを侮ってた。認めるよ。捕まえておく努力が足りなかった」

 重ね重ね、彼と私は付き合ってなどいない。私の一方的な片思いのはずで、清瀬は私のことなど歯牙にもかけていないはずで。らしくない。いつものように無関心なふりをし続けてほしい。そんなふうに身勝手なことを考えたくなるくらいには動揺していた。

 不測の事態に怯える私の腕を取り、清瀬はさらに距離を詰めてくる。彼の息づかいまで聞こえてきそうだ。
 清瀬の手が顔の横を通って、耳に触れ、うなじを撫でていく感覚に身を固くする。

「立てるか?」

 低くささやかれて、私はされるがまま立ち上がった。ふっと彼が漏らした小さな笑い声に、全身の肌がざわめく。
 清瀬が、台所のすぐ横の部屋を開けた。

「あの……あなたはそういうのじゃないっていう、こっちも思い込みがあったというか」

 彼は私の言い訳には耳を貸さなかった。私の背中を軽く押して、自分の部屋へ導き入れる。彼が素早く閉めた扉の、上の方の金具が軋んだ。
 狭い和室に小さな本棚、背の低い卓。壁際にジャージの上下がハンガーにかかっている。一歩を踏みしめるごとにぎしっと音のする古い畳。
 ……ひとの家のにおいがする。好きな人の生活する部屋に初めて入った感想はそんなものだった。状況に混乱して、私はトートバッグの持ち手をすがるように握りしめた。

「そう思ってるだろうなとは思ってたよ。ある種の油断だよな」

 すぐ後ろにいる清瀬の声が、耳に当たるほど近い。彼の声がひりひりと耳朶を震わせて、息が苦しくなった。油断。清瀬灰二は私なんか相手にしない。そう思ってあきらめていたことが?
 私はいつも彼の横顔を見ている。颯爽としていて潔白で、見る間にどこまでも遠くへ行ってしまいそうな彼を。

「今までの男と優劣をつけないでおいてくれると有難いんだが」

 鳥肌が立った。発生源は肘の辺り。ぞわぞわしたその感覚が上腕を走っていって、首筋に到達して、眉間に名残を置いてふわっとどこかに消えてしまう。
 どうするべきなのか、知ってはいる。でも清瀬灰二に対して、私の用意できる媚びが通用するかどうかはさっぱりわからない。



 折り重なった身体の細さ、その芯に触れてしまってさえ、私はまだこれが現実に起きていることとは信じられないでいた。
 彼とはきっと性根の相性が悪くて、人間としての格が違って、彼女になりたいなんて思ってない。
 身につけた言い訳を丁寧に引き剥がされて、今あまりにも鮮明な、生身の彼の体温やにおいや、挙動のひとつひとつに慄いている。


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