| ナノ


本丸にいる人数が少ない間に出たかったので、私は素早く支度を済ませた。久しぶりに履くパンプスに差し込んだ踵の具合を確かめる。気合を入れたフルメイクも久々のせいか、なんだか顔の上がむず痒い。
そっと横開きの戸に手をかける。

「そぉんなにこそこそして、どこ行くんだい?」

背後から、指の長い大きな手がにゅうと伸びて私の肩を掴んだ。驚きすぎて声にもならない。
ゆっくり振り返ると、華やかな出で立ちの巨躯がこちらの顔を覗き込めるほど近くに迫っていた。

「次郎……」
「めかしこんじゃって。なあに、これなの?」

驚いて跳び上がった肩をがっしりと掴んでいた次郎太刀の手が離れる。彼が、その離した方の手の親指を雄々しくもビッと上に立てたのを見て頭を抱えてしまう。そんな人間的な表現をどこで身に着けるのだか。

「そんなじゃないよ。よその審神者さんたちと女子会」

次郎は上がり框に腰を下ろすと、膝の上に頬杖を突いて私を見上げた。まるで試すような、問い質すような視線を向けられて、私は居心地悪く扉の方をちらちらと窺って沈黙を濁す。
せっかく隠密行動だったのにここで出会ってしまっては元も子もなかった。

「アタシらと飲むんじゃ物足りないってわけかい」

本丸にいる間はほとんど和装で過ごすことの多い私の、今日ばかりはと膝丈のワンピースを着た脚を、ストッキングの薄布の上をなぞるように次郎太刀の手が滑った。ぞわりと、息を呑むような緊張が下半身に走る。
時間は、まだある。それは大丈夫。だめなのは私の心持ちのほうだ。

太郎太刀、次郎太刀の大太刀の兄弟二振りと酒を飲むことはままあった。彼らは神社に奉納されていた神刀でありながら……むしろであるからなのかやたらに酒に強く、眠れない夜半に付き合う内に私もすっかり鍛えられてしまうほどだった。
そろって酒を呑むうち、彼らについて次第に感じ取ることがあった。
太郎太刀は呑んでも大きく様子が変わることはないけれどすこし多弁になる。笑顔もやや増える。真顔で冗談も飛ばす。──では次郎太刀は。割といつでも呑んだくれているように思うけれど、三人で呑むときは少し様子が違う。皆の寝静まった夜中に、ぽつりぽつりと他愛なく会話する中で、次郎はときどき強く熱を持って私を見ているような気がするのだ。そしてときどき、私にさわる。なぞるように、手を当てるというよりももっと歯がゆく、肌と肌がかろうじて触れ合っているという程度もどかしく。
それを気のせいだと思うこともある。豪快な調子で、元気お出しよ、なんて言って背中を叩かれるといつもの姐さん肌の次郎だなと思う。だからあのときのあればかりは酔いが回ってあんな目をするのだと、あんな風にさわるのだと。


────ねえ主。今晩はもうお開きにしようか、……部屋まで送ってったげるからさ


「違うって。たまには女ばっかりでえぐい話したいの」
脳裏の蠱惑的な男の声を振り払うように努めて明るい口調で言うと、次郎太刀は気の抜けたような顔で「おーこわい」と笑って肩をすくめた。私の脚から手が離れる。

「ねえ主」

そうやって呼びかけるとき、彼はからりとしたいつもの口調ではないのだ。

「早く帰っておいでよ。迎えに行けるものならそうするけど、アタシら待ってるしかできないんだから。ね?」

うん、と私がまるで子供のように頷くと彼はまたにこりと笑って立ち上がり、時計を気にする私のために玄関口へ降りて扉を開けてくれた。背中には、まるでエスコートするように彼の手のひらが添えられている。

「いってらっしゃい、主。ちゃあんとキレイどころにお見送りされましたって言うんだよ」
「はいはい。あなた方もお酒は程々にね」

次郎は、そいつはどうかなあとからからと笑って手を振って、私を送り出した。


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待ち合わせの時間きっかりに私は集合場所にいた。先に着いていた親交の深い審神者業の女性と三人で、今日の面子の最後のひとりを待っているところだった。

「ごめん、お待たせしました」

パンプスの踵で小気味よい音を立てながら現われた彼女は、今日は政府庁舎での仕事を済ませた帰りということだった。
恋バナしようか、などと気軽に言って私たちを集めたのはこの方である。備前国での勤務が長いと聞く。互いに本名で呼び合うこともない間柄ではあるものの、私も懇意にさせていただいていた。


「この職場って多いじゃない、神隠し」

かなりフラットにその単語が出てきたので、にぎやかな居酒屋の個室の中には瞬間的に凍り付くような沈黙が下りた。
グラスの細い脚を彼女が手元でもてあそぶので、シェリー酒ベースの華やかなカクテルの水面にゆらゆらと波紋ができている。
自分が呼び寄せた三人の女が固く口を噤んでいるのを上目遣いに見て、備前国の審神者様は不意に目元を和ませた。

「私も、そろそろかもしれなくて」

それできっと人恋しくなっちゃったのね。年の近い女性とお話がしたくて。
彼女が言い訳するように矢継ぎ早に言うのを、私たちは黙って聞いていた。なんとなく、察しているところもあったのだ。彼女の恋人が誰かなど聞かなくても、話の端々にそうと窺わせるところがあった。演練で偶然お会いしたときでさえ、私は彼女の近侍と目を合わせることができなかったほどだ。彼のあの途方もない慈しみの目。主として奉じながら、それ以上の感情がその目にあった。自分の所有する同じ一振りはまさかあんな表情はできないだろう。
たかが刀。たかが器物。その付喪神。そう軽んじることなどできようはずもない。




本丸に戻ると、屋内の明かりはほとんど落ちていた。門戸は固く閉じていて、玄関の横開きの戸も鍵がかかっている。私の都合もあって短刀たちの夜戦はなく、明日も出陣、遠征を控えた男士たちはそのほとんどが既に休んでいるようだった。
一歩一歩を引きずりながら自室を目指して進んでいく。へたへたと気の抜けるような自分の足音と、ストッキング越しの廊下の木目の冷たさが、酩酊した頭と現実の千鳥足とをぎりぎりすり合わせてくれて、ようやく歩いている状態だった。

まだ頭の中で、お酒の席での話が尾を引いていた。
そろそろかもしれなくて。神隠し。……あの方の、華やかでいてはにかむような弾む声がまだそのまま耳に残っている。私を含む三人のうち、ひとりでもそれを咎めたり諫めたりしなかったことが答えだった。誰もが自分の刀剣男士にあらぬ懸想を抱いている。そんなの現実的じゃない、いい大人が公私混同なんてと割り切って考えようとする言い分を自分の中に認められはするのにそれを他人にぶつけることはできなかった。何もかも振り切って気持ちを貫いて、逃げることができるならどんなに幸せだろうか。そう思う一方で絵空事だとわかっているから白々しいのだ。
そうやって夢見がちで白々しくてと拗ねていた私と違って、彼女にとってそれは現実的な選択肢だった。その彼女のことを羨ましいと妬みたいのか、向こう見ずとそしりたいのか、自分でももうよくわからなかった。

部屋には床の用意がされていた。誰か気の利く短刀辺りが設えてくれたのだろう。ちらっと前田かな、と思った。
ストッキングを下ろし、一思いにワンピースを脱ぎ、夜着の浴衣を羽織る。手にクレンジングオイルを染み込ませたコットンを握って顔に押し当てた。
シャワーくらいは浴びて寝たい。
そう思った時にはもう頭は枕の上で、うつぶせたままあっという間に寝入ってしまった。


+


翌朝は驚くほどすっきりと目が覚めた。心に引っかかっていたはずの何物も寄せ付けないような潔い熟睡だったらしい。
手にはコットンを握ったまま、時計もしたまま、確かに羽織った記憶のある浴衣は帯がなく前身頃が大きくはだけていた。泥酔した女がなりふり構わずとにかく眠りたくて一切の後始末をしなかったことがはっきりとわかる。ひどい。

幸いにして朝の六時前後。男士たちと共用の浴場は空いていて、厨方で立ち働いていた男士たちに声をかけてから朝風呂を頂くことにした。
浴場の入口に、歌仙兼定の手蹟で「使用禁止」と書かれた木札をかける。大浴場の脱衣場に併設の洗面所は、鏡台と洗面台を各三つ設置してある。ちょっとした温泉施設と遜色ない設備だと自負している。洗顔料から美容液まで一番充実しているのもそこなので、風呂上りに服を着た後にはこの木札はさっさと下げてしまうことにしていた。

簡単にシャワーを浴びたあと、身支度を粗方済ませて顔面の保湿に勤しんでいると、鏡台の鏡越しに大きな身体がぬうっと現れた。次郎太刀だ。寝間着のまま、髪もまとめていない。朝の身嗜みについては私も彼のことを言えないが、ずいぶんと眠たそうだ。

「おはよー、主」
「おはよう。また二日酔い?」
「うん?今日は迎え酒もしてないよ……禊サボったし、ちょっと眠いけどさ」

まだ顔の筋肉に力が入らないみたいにへらっと締まりのない笑顔を見せた次郎太刀は、大柄な背丈を屈めて顔を洗い出した。神刀に類する男士が毎朝の禊を習慣にしていることは知っていたが、サボりが出るということはさほど厳格に行なっているわけでもないらしい。

「そっちはどうした? 浮かない顔でさ」
「私こそ二日酔いなんだよね、実は」
「この次郎さんをお舐めでないよ。何があったのか言ってごらんって」

隣の鏡台の前へ腰を下ろした次郎が、すっぴんの肌に化粧水を叩き込みながら意味ありげな視線を送ってくる。つまらない誤魔化しを咎めるというよりは、まさしく「白状しちまいな」という目だった。

「いや……昨日のお話が色々と衝撃的で。ちょっと自分の在り様を悩んだというか」

それでもまだ誤魔化し足りずに、喋らずに済む時間を作ろうと三段階に分けて塗り込んだ諸々の美容液のふたを閉め、朝方のぼやけた顔に薄化粧を施していく。頭は寝起きと変わらずすっきりしていたけれど、肌の調子ばかりは昨晩の無茶を看過してくれてはいなかった。
「うん、それで?」
次郎はその時間稼ぎにもあっさりと切れ込みを入れてしまった。刃物の尖った光を含んだ彼の目が、次に出てくる言葉に集中しているのがわかる。いっそここが観念のしどころなのかもしれなかった。

「女同士のこわい話、聞きたい?」
「参加してきた当人がへこんでんだから、そりゃあね」
「もうすぐなんだって、神隠し」

いつもの姐さん肌で笑い飛ばしてほしいけれど、この話題がそれほど軽やかなものでないのは言うも愚かなことだった。
"神隠し"という事例が公然の秘密になっているとはいえ、政府に通報する考えが浮かばなかったのはあの場に私だけだろうか。人材の逸失は政府の立場からすればもちろん、一同僚としても避けたいところであるのに、彼女の言葉に衝撃を受けながら、その感情に対しては妬みや嫉み以上に、胸にすとんと落ちてくる納得があった。簡単なことなのだ、と。

「だからたぶんお別れ会だったのかな、昨日は」
「ねえ、主」

彼のその声は、私の身に余るほど、そして早朝の時間帯には似つかわしくないほど陶然と甘い。ほとんど怖れながら、私は彼の目を見つめた。
あの彼女にとって付喪神との愛が絵空事でない以上は、浮世に残される何もかものほうが借り物のように思われたのだろう。しがらむもののない無間の夢をこそ、彼女は自分のものにしてしまった。

「望んでくれさえしたら、アタシにとったって造作もないことだよ。……わかるだろ?」

───では私は? 宝前にささげる祈りよりも、肉の器にうつつを抜かすこの私は。


pixiv投稿文再掲
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