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手元に犬を預かっているので、彼が不意にやってくるかもと思うことが増えた。行きつけの店から足が遠のき、職場の同僚から学生時代の友人まで、誰に対しても付き合いが悪くなった。古い友人からは、男ができて社交性を失うタイプでもないのにどうしたの、と言われる。本当にそう思う。どうしたんだろう。今まで生きてきて、こんなに人間関係を疎かにしたことは未だかつてない。

対人が疎かになったおおよその原因は犬だ。私の手なくして生きられない命をいとおしむ気持ちに、あの男が私を信用してこの子を預けていったという充足感が分かちがたく結びつきあって、私から社交性を奪った。
正直とても癒されている。いっそのことうちの犬にならないかなと思う。


長期間家を空けることになりそうなので、申し訳ないが飼い犬を預かってほしい。……彼からの申し入れを始めは断るつもりだったのに、「この子なんだけど」とプラスチック製のキャリーケースから出された子犬の姿に、喉元まで出かかった断り文句が吹き飛んでしまった。
各種健康診断とワクチン摂取済み、まだ子犬なので散歩は1日1回30分程度。引き受けてもらえるなら留守中のドッグフードは手配するので、翌日には受け取ってほしいこと。等々説明を受ける間、私は既に毛並みの柔らかい、つぶらな黒い瞳の犬を撫で始めていた。
何かあったときに責任持てないから…こっちだって独り者だし仕事で遅くなったときに可哀想だから…断る口実は様々浮かぶが、いまひとつ説得力とお断りの気概が足りない。

「病院にかかるようなことがあれば、これも経費として出す。あとは……」
「もう私が引き受けると思って話してませんか?降谷さん」
「もちろんそう思って頼んでる。悪いけどよろしく。あ、名前はハロだから」

降谷さんはハロの白い頭を一撫でし、申し合わせたように鳴った電話に出た。
口では渋るようなことを言ったものの、実際彼の見込み通りだ。いずれ犬か猫がほしいと思って住み始めたペット可マンションがこんな形で役に立つときが来ようとは。


以来、ハロは2ヶ月以上の間、私の家にいる。
ほとんど定時に仕事を切り上げて、買い物を済ませたらまっすぐに帰宅し、スーツを着替えてハロの散歩をする。家に戻ってまず預かり犬に餌をやり、自分の食事を済ませて風呂に入って寝る。朝起きたらハロに給餌し、出社して……と繰り返していると、月を跨ぐのもあっという間のことだった。

子犬の笑っているような愛らしい顔をぐにぐにと指の背でマッサージしながら、ハロの本来の飼い主のことを考える時間は日に日に増えていた。
びっくりするくらい身体能力が高いのに、彼が度々する怪我のこと。ハロに向ける優しい顔。プライベートな時間がほぼなきに等しい彼が、その昼も夜もない多忙な時間を割いてわざわざハロを預かってほしいと頼みに家まで来たこと。……降谷さんがこの部屋に来て、ハロを撫でた。サーバーから勝手に、私の分までおかわりのコーヒーを注いでいた姿があまりに素敵で言葉もなかった。
実態を伴って目の前にいる彼を信じられなかった気持ちのまま、私は何度もその日のことを思い出す。

降谷さんのことを考える度、私はハロを真っ当に可愛がっているつもりで、この愛らしい犬から降谷さんに大切にされるということの残り香を嗅ぎ取っているだけなのかもしれない、と思う。


そして彼が、私の不意をついてやってくることはついぞなかった。






──うーん…独り言がかなり増えた……いや、なんか単語とかだったら通じてるし……そうそう、え?うん、かわいいよ、犬。うちの子にならないかなって思うもん


勘のいい相手であるからと思って、動向の確認は盗聴に留めた名前の部屋で、彼女が親しい友人のひとりと電話をしている声を拾っている。
ワイヤレスイヤホンからの音量は最小まで絞ってあった。全国チェーンのカフェのざわめきの中で、その極小の音にまで注意を払うものはない。

彼は安室透として人を待っているところだった。両側の2人用のテーブル席はどちらもカップルが座を占めている。彼の対面の席は待ち人のために未だ空いていた。22:30。降谷零が愛犬ハロを預けた苗字名前は、仕事と犬の散歩を終え、食事と入浴の後の時間に友人からかかってきた電話に応答し、15分が経ったところだ。
降谷は残り少なくなって冷めたコーヒーを一息に口に入れ、リラックスした女の声に意識を集中する。

──うん、忙しいみたい。写真送ったりして犬の様子報告してるけど、たぶん見てない。………

それは知らなかった。プライベート用の端末は電源を切った状態で職場のデスクに入れたままだ。鍵付きの引き出しを開けるのも億劫でしばらく確認していない。
送ってきたと言っても、まさか写真だけでもないだろう。一言二言余計にあっていいはずだ。一度戻ったら目を通しておこう。

出入り口に上背のある男が現れて、降谷は「安室透」のスマートフォンの画面からブルーグレーの目を上げた。

──そう?うん、まあ飼い主のところに帰したらね。いいよ、行こ

彼女のくすぐるような柔らかい声を最後に、イヤホンを外す。

椅子の脚が床に擦れて不恰好な音を立てる。座った男は眉間にきつく寄せた皺をもみほぐし、安室とは頑なに目を合わせようとしなかった。年は40代の半ば、小綺麗なスーツ姿。左手の薬指にした指輪は経年劣化に晒されて煤けたような銀色をしている。

「安室透か?」
「はい、初めまして。ご足労頂いて恐縮です」
「あまり君と話したくない。手短にお願いする」

男は飲み物も頼まず、コートさえ脱がない。一刻も早く立ち去りたいという苛立ちを隠さなかった。
さもありなん、と安室は思う。妻が交遊に浪費した金額に頭を痛め、社の機密情報に手をつけられていた事実に驚愕し、これらの調査のために使った私立探偵相手にその妻が色目を使ったと知った夫の心労は察するに余りある。

依頼人との交渉と打ち合わせはショートメールと電話のみで、件の妻との会話を収めた音声データの一部はお互いに使い捨てのアドレスを設定してそこでやりとりしてきた。
今日は証拠となるデータの受け渡しと、報酬交渉が目的だった。

「ではこちらがご依頼のデータです。音声、画像、文章ファイル。すべて無編集です」

安室が卓上に8GBのUSBを差し出す。男はそれをひったくるようにして取ると、コートのポケットに放り込んだ。……不用意な男だ。そうした無頓着さがあってこそ、20も年下の妻に機密を持ち出される間抜けを引き起こすのだ。

「報酬は前金と同じ額を。それから、あなたの個人的な取引先のリストもお願いします。商品目録なんかも頂けると助かりますが」

安室というよりはバーボンの態度で降谷は言う。事もなげな私立探偵の口ぶりに、男は早く切り上げようと安請け合いをしかけて、やめた。
安室透の手元、空のコーヒーカップの周りを依頼人の目が泳ぐ。

「……指定口座への入金を確認したら、連絡先は必ず消してくれ」


要求を無碍にしたまま、依頼人は立ち上がった。閉店時間が近付いている。両隣の席にカップルは既にいない。

「奥様は会社の契約情報にご興味がおありのようでしたけど、さすがに黒い商売には怖気づいたんでしょうね。だからあなたのことが怖くなってしまったわけだ」

まだ客はちらほらと残っているが、気の早いバイト店員がフロアの掃除をしに出てきた。悠々と長い脚を組んで座った褐色の肌の美丈夫と、裕福な身なりの四十男の横を、恐縮したように肩をすくめて通り抜けていく。

「あんた、あまり首を突っ込まない方が身のためだ。行方不明でも何でもでっち上げるのは簡単だぞ」
「ええ、分かっていますよ。だから申し上げてるんです。顧客リストを渡せ、と」

人が減ったせいか、ゆったりとしたジャズ調のBGMが耳につく。男はコートのポケットに片手を入れて、中でUSBをもてあそんでいる。気持ちが落ち着かないときの手遊びが激しくなる性質のようだ。顔色が悪い。

「上の方が、銃と金の動きは完璧に把握しておきたいそうでして」
「頼むからもう勘弁してくれ。妻の件はあんたらが絡んでるのか?契約書の持ち出しも?どうなってる」
「まさか。組織もそこまで暇じゃありませんよ。僕はあくまで私立探偵として仕事をしたまでです。あなたの行動が目に余った、というのも事実ですが」


たっぷりの沈黙があった。男の眉間には、峻険な谷が幾重にも連なっている。

「調査用のアドレスに送っておく。………あんた、ネームドだな」
「二度とお会いしないことを願ってますよ」


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"依頼人"と会ったその足で、降谷は合同庁舎のオフィスに戻った。自分のデスクに直行し、PCを起動する。業務用のスマホに溜まったショートメールに目を通しながら、片手間でキーリングにおびただしく取り付けられた鍵の束から引き出しの小さな鍵を探し当てた。
約3ヶ月ぶりに起動した画面に指を滑らせ、こちらもショートメールのアプリを開く。

初めは3日に一度、次第に週に1回の頻度で、ハロの写真が送られてきていた。思った通り、毎度写真の前に「お仕事お疲れ様です」と入っている他、週報のように事務的なハロの体調を伝える文面が残っている。
散歩の最中に水たまりにでも突っ込んだのか、前足の汚れたハロの写真に添えられた、「ハロのシャンプーしてもいいでしょうか?」が一番気安い口調で問いかけているが、当然降谷はこれに返答をしていない。多忙を極める降谷のことを察している名前が、一応聞きましたよ、という証拠として送ったのは明らかだった。
我知らず、降谷の口元がふと綻んだ。控えめなメッセージと、ことごとく犬だけを写した画像と、友人と話す親しげな口調。ハロに呼びかけるやわらかい声。……名前が降谷零との双方向のコミュニケーションをすっかり諦めているらしいことは感じていたが、完全にそうと思い込まれたままでいるつもりはなかった。
でなければ大事な愛犬を預けないし、かと言ってそれだけでは彼女を都合よく使っている印象もまた拭えない。会いたい、と思うのは、せめて弁明をしたい、と同義だ。
自分の都合でしか関われないことで、彼女に誤解を重ねさせていることも、口実をつけて家に上がった下心についても。


業務用端末が鳴動した。降谷は表示されている番号を一瞥して電話に出た。

「僕だ」

──風見です。お言いつけ通り"依頼人"の帰宅を確認しましたので、これより戻ります

「そうか。ご苦労だった。悪いが戻り次第頼みたいことがある。仮眠は後回しにしてくれ」


PCに向き直り、立ち上がった複数のメールソフトの中からフリーメールの受信トレイを開く。業務用端末のアプリ内で各案件の進捗確認をしながら、PCの更新ボタンを連打する。
目当てのメールは無題に本文なし、パスワードロックの厳重な暗号ファイルで届いた。ファイルの形式はそもそも降谷が音声データを送付した際に使用したものだ。馴染みがある。
解凍後のファイルの中身をざっと確認し、顧客リストと商品目録を2部ずつプリントする。複合機が低い音を立てて節電モードから覚醒し、ガタガタ騒ぎながら十数枚の紙を吐き出していく。

黒の組織に対する武器の供給を行なっている実業家が商売相手の股がけをしたがっている。組織との独占契約を条件に国外との輸出入取引に渡しをつけてやったことを忘れて、組織を出し抜けると思い上がってしまった──ベルモットから聞き出した通りのことが紙面で起きていた。
顧客リストの大半は前金を取る段階で、目録上はまだ在庫を多く抱えている。出荷しているのはごく少数、単発の客だ。商品を小出しにして顧客の選定、組織側の反応を窺いながら、段々と大胆な取引に手を出そうという魂胆が見える。

組織への「バーボン」の報告は、継続しての契約は未遂、単発の客への横流しの差し止めは要求済み、というところに留めるつもりだ。
公安の降谷零の立場からは、多量の銃火器を所持の上、売買契約が成立している案件ありとしてこの男を拘引する。
取引を裏付けるのは、本人から送られてきたデータ一式に加え、"依頼人"の妻が安室透の口車に乗って夫個人所有の金庫から掠め取ってきた、銃火器に関する買付証明書の原本だ。

組織へ流入する物資の取引ラインがひとつ潰れ、国家保安を脅かす類の人間も共倒れになる。さらに被疑者の妻は善意の情報提供者として、危険な商売に手を染める夫から晴れて自由の身、というわけだ。

睡眠時間を切り詰めてきたこの3ヶ月弱の間で処理した案件は何もこれだけではない。それでも、これさえひと段落つけばと目安にしてきた仕事ではあった。

出先から庁舎へ戻ってきた風見に資料を渡して令状の申請等を依頼し、降谷は別件の指示書作成に入った。
これさえ終われば、と思う彼の脳裡には、ドリップコーヒーがたっぷりと入ったサーバー、白磁のマグカップ、熱いシャワーと、それからよく乾いたあたたかい布団が遠い理想郷のように輝きを放っていた。


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仕事にひとまず区切りをつけ、明け方近く、降谷は3ヶ月ぶりの我が家へ帰宅した。
玄関で後ろ手にドアを閉めた途端、身体は急激に疲れを訴え出した。帰路の車内で、シャワーを浴びよう何か腹に入れようと様々思い巡らしていたことが霧散する。出迎えに走ってくる愛犬はいない。
コートをハンガーにかける程度のことさえできないまま、脱ぎ捨てた衣服を点々と床に落としてたどり着いた布団に潜り込むと、彼はさっさと眠ってしまった。


次に目が覚めたとき、降谷はすっかり自分を取り戻していた。9:12。最後に時計を見てから5時間が経っている。
布団から這い出て、散らばった服を集めていく。大体のものはクリーニングに出してしまえばいい。
業務用と降谷個人の端末、安室透の端末を横並びにしてすべて充電器を挿した。唯一身につけていたボクサーパンツを洗濯カゴに放り入れて、シャワーを浴びた。

朝食は摂らずに買い置きのインスタントコーヒーを飲む。
ハロがいないと、家の中は静かだ。友人に預けたままにしてしまっている愛犬の顔と鳴き声とがちらつく。

酒飲みの彼女が、仕事のあとに友人や同僚としばしば飲み歩いていたことは知っている。しかしハロを預けて以来、責任感の表れか単に動物好きなためなのか、そうしたことが減った。彼女の生活はすっかり規則性を帯びてパターン化している。
……私生活を覗き見る行為に罪悪感がないわけではない。一方で、苗字名前は降谷零の最もプライベートな人間関係に組み込まれた人物で、彼の三重生活における弱みでもあった。降谷の、あるいはバーボンの関係者として目をつけられる可能性が大いにあり得るのだ。監視不要というわけにはいかなかった。

降谷はマグカップを持ったまま布団の上に座り込み、充電中の安室透の端末を手に取った。アプリを立ち上げ、イヤホンを耳に押し込む。


──カシャカシャ、という硬いが小気味良い音には覚えがある。ハロの足の爪がフローリング材をこすって立てる音だ。近付いてくる。次いで、相手の注意を引きたいときの、明るい鳴き声。

──待って、ハロ。そこは乗っちゃダメ

母親のような口ぶりで名前が言う。平日の10時前に彼女が自宅にいるはずはない。降谷は自分名義のスマートフォンを見て、今日が土曜日であることを今さら知った。曜日の感覚がまるで麻痺している。

──いい子だね、ハロ

彼女がハロ、と呼びかける猫なで声が、降谷は好きだった。いい子だね、かわいいね、と掻い撫でられて、愛犬がキュウキュウと可愛げに鼻を鳴らす音が聞こえてくると、たまらない気持ちになる。

……その場に僕がいてもいいはずじゃないのか?

今さらのようにハッとする。曜日の感覚を失っていたのと同じだ。多忙が過ぎて、こうして耳で聞くことしか許されなかった状況がおかしいということをぽっかりと失念していた。会いたい、とばかり思って、実行する余力もなかったとは。

安室透のスマートフォンを放り出し、マグカップを床に置く。布団に仰向けに寝転がった。

家まで行けば会えるし、中に上げてくれもするが、決定的な一言は避けられてきた。
降谷との関係はお友達くらいが関の山、と決めつけていることは言動の端々から感じ取れるが、彼を恋愛対象から完全に外しているとも思えない。一定以上の好意を抱くことにも向けられることにも怯えているような素振りのくせに、降谷の頼みはいつも快く引き受けてくれた。期待するなという方が難しい。

恋人に向かない男だという自覚はある。でも、それでも、おそれるように身を引いていってしまうのはあんまりだ。


彼女に連絡しよう。
その降谷の決意を遮るように、公安業務用の端末が着信を知らせた。







降谷さんからの連絡は、実に3ヶ月ぶりのショートメールでもたらされた。


──仕事の目処がついたので、後日ハロを引き取りに伺います。

丁寧な文面だ。仕事のメールみたい。
ハロを見ると、部屋の隅に自分で引っ張っていったクッションの上で眠たそうに目をしばたいている。すっかり気に入られてしまった丸いクッションは、今やハロの体の形にへこんでいる。降谷さんが来たら、あれも一緒に持って帰ってもらおう。部屋に余計なものを置きたくないと言われたらそれまでだけど。

どれだけ待っても返ってこなかった応答がようやくあったのに、手放しで喜べる心境にはなれなかった。
仕事上の付き合いと大差ないほど、彼とは精神的に遠いのだ。
犬を任されたのにもきっと大した理由はない。ペット可マンションに住んでいる独り者で、帰宅はさほど遅くならず、動物嫌いの気もなく、一般常識レベルの責任感があり、そして何より降谷零に惚れている。彼の持ち物に危害を与える動機のない女だからだ。
いいように使われている。その自覚はあっても、ささくれ立つ心を当のハロが癒してくれるお陰で、この3ヶ月の私は物の見事に嫌なことから目を背けてきた。

降谷零というひとに好意を持つ不毛さはどれだけ目を逸らしても迫ってくるものだ。多少なり彼からアテにされる友人という立ち位置が私の限度で、これ以上を望むのはおこがましい。
もう一度、送られてきた短いメッセージを見る。
褐色の指が淀みなく画面を滑って……という想像の中でさえ、その指の持ち主はげっそりと疲れた顔を皓々と光るブルーライトに照らされている。

ハロがいなくなれば、規則正しく回っていた私の生活は錆び、心はかさつき、降谷さんに連絡する口実も消えるが、何もかも仕方のないことだった。
彼の生活にこそ、いるだけで部屋の空気を明るくしてくれる癒しの犬が必要だ。


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胸に飛び込んでくるハロを、降谷さんが「久しぶりだな、ちょっと大きくなったか」と言って、広げた両腕に抱き留めた。犬の体中をわしゃわしゃと撫で回す彼は、すっかり愛犬家の顔をしている。自分の犬をかわいがる、ふつうの飼い主。……飼い犬相手には本当に人情味があふれている。

客を家の中に招き入れることも忘れて、私は彼の一挙一動を見ていた。
この人は色々な人脈を、様々な用途に使い分けているのだ。私はきっと生物担当で、たぶん犬の次はそこらで保護してきた子供の一時預かりを頼まれるかもしれない。……そうとでも思わなければ取り込まれてしまう。期待はしないのが身のためだ。
ただふつうに喋って立ち歩いて笑っている彼を、案外ふつうだ、と思うことがあるとしても、方々に中継基地として女でも男でもいるかもしれないという仮定がまったくの妄想とは思えないのも事実なのだから。

友人としての顔を維持しながらも絶えず持っている彼の他意に、私も気付いている。


「経費の精算と、あとお礼がてら甘いものがあるんだが、今日は上がらない方がいいか?」

気遣わしげに降谷さんが言う。大喜びして尻尾を振っているハロをなだめるように撫でながら。

「いえ、どうぞ。よければお渡ししたいものもあるので」
「じゃあ遠慮なく」

ハロが足下にじゃれつくのに任せて、降谷さんが靴を脱いで、行儀よく揃えて置いた。私は彼が来なかった3ヶ月の間に新調した来客用のスリッパを差し出し、代わりに焼き菓子が入っているという紙袋を受け取る。
何度見ても惚れ惚れするような美しい男の後ろ姿が、白い小さな犬を伴い、勝手知った風で私の先に立ってリビングへ入っていく。


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テーブルにはもらったお菓子を盛った皿と、中身の減ったコーヒーサーバー、白磁のカップが2つと、3ヶ月間で溜まったハロ関連の領収書をまとめたクリアファイル。

一通り事務的な話は終わっていた。構われたがってうろちょろしていたハロは降谷さんの胡座の上に収まって幸せそうに目を細め、降谷さんは、わしわしと遠慮なくハロが差し出した腹を撫でている。


「さっきから何か言いたそうな顔してるけど、どうした」

今日初めて見つめたグレイッシュブルーの目を前にして、とぼけるようなタイミングはとっくに逸しているらしい、と不意に気付く。
彼は、部屋に入ったときからずっと私を観察していたのだ。
ごまかしても顰蹙だろうし、かといって素直に言ったら、人を人非人みたいに…とお小言を食らうだろうが、仕方なかった。

「あなたにも平凡なところがあるんだなと思って。安心してました」
「……君が思う平凡というのは、どういうことを指すんだ」
「特定の相手に愛情を注ぐとか、そういう。ね、ハロ」

名前を呼ばれて反応したハロが、仰向けのまま尻尾をはたはたと動かしている。笑顔を浮かべる白い顎を撫でてやろうと伸ばした手を、降谷さんが無造作に掴み取った。

「前から思ってた」
「……何でしょう」
「ちょっと不用心過ぎないか?」

掴まれた手の、甲から指の根元に向かって、降谷さんがゆっくりと親指の腹で撫で上げていく。間近に見る甘く整った目鼻立ちと、陶器のように均一な肌理の肌に、背筋がふるえた。
彼をまるで実体のない霧のように、知覚にだけ訴えかけてくる幻のように思いながら、生身の男として好きになってしまった。それを今思い知らされようとしている。

「僕も人並みには傷付くし、下心もあるんだけどね」

ハロが体を反転させて、飼い主の胡座から身を退けた。部屋の隅の丸クッションに向かっていく。……そうだ、クッション。ハロちゃんが気に入ったみたいなので持って帰れませんかって、聞かなきゃ。

「降谷さん、あの」
「うん?」

胡座がほどかれて、降谷さんの身体がこちらを向く。煙に巻くようなやさしい返事。まるで取り合ってくれないつもりだ。
私が怖気付いて考えを巡らせていることも彼は分かっているのだ。

「本当はこんなに急ぐつもりじゃなかったけど、もういいよな」

投げやりな口ぶりと共に気の強そうな眉が弱々しく八の字になった。もちろん許してくれるよな、なんていう態度ではないのに、身体だけは強引に迫ってくる。

混ぜっ返してうやむやにしようとした思惑もこんなことが起きるわけないと思う焦りも、降谷さんの薄い唇に呑まれて、私はキスの最中にも閉じられることのない青い目を見た。
私の感じ取っていた彼の「他意」は、とろりと溶け出すような視線を送ってくる。

押し流されていく先で、私の名前を呼ぶ降谷さんの声が、また何か言う。
あとで全部言わせてほしいから、今は、と。


Title by : ALASKA

pixiv投稿分再掲
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