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フレンに彼女ができた。恋人というべきか。呼び名はともかく、たぶんあの男のことだから結婚までを展望した上での相手に違いなかった。望んでのことかは知らないが仲介役になったのはエステルだったそうで、それならきっとその彼女とやらは人間としてできた女性であることは間違いないだろうなと思ったわけで。
つまりそんなこんなで人伝いに聞いた噂が私の長く続いた惰性の初恋を粉々に砕いたのだった。

















初恋が実らないなんて無責任なことを言った奴はいったい誰なんだろう。

入れすぎて溶け切らなかった砂糖がティーカップの底に溜まっている。一杯しか飲んでいなくて、ポットにはまだ紅茶が残っているのにもう飲む気がしない。パン屋の息子がくれた茶菓子もまだごっそりバスケットに乗っかっている。
正直な話をすると、自分が失恋ひとつでここまで意気消沈するタイプだとは思っていなかった。仕事はいつも通りにこなせるし、誰と話していても特に自分が沈んでいるなんてことは感じもしないしそれを誰かに指摘されることもない。それなのに、家にひとりになった途端にこれだ。日常生活を送る最低限度の行動だけがかろうじて身体に引っかかって、それでなんとかひとりでの時間をやり過ごしている。
私はいったい何をしてるんだろう。
そうやって自分が情緒不安定になっていることにまたなんともむなしい心地になって、頭を抱えてしまう。

不意に窓の方から木枠が軋むような音がして目をやると、艶やかな黒髪を揺らして颯爽と窓辺に現れた不審者と目が合った。


「よう、名前。元気してっか?」
「………窓から入んなって何回も言ってんじゃん」
「そう何べんも言われた覚えはねえな。勘違いだろ」


私の住んでいる部屋は三階だ。窓の近くに背の高い木があるからと言っても気軽に窓から入り込むなんて真似ができる環境ではない。普通なら。しかし下町で一緒に育った昔馴染みふたりにはその「普通」が通用しないのが悲しいところで、ユーリと、フレンでさえも毎度毎度、何回入り口から正式に訪問して来いと申し付けても、窓の木枠から顔を覗かせる。その気安さももうすっかり昔のことだと思っていたのに。


「お、美味そうじゃん」
「食べていいよ」
「……お言葉に甘えて」


ユーリは横目に私を見ながらバスケットの中身に手を伸ばした。甘ったるいラスクを真っ先に頬張りながら、勝手にカップを出してきてポットの紅茶を注ぐ。それからテーブルについている私の対面へ予備の椅子を引っ張ってきてどさっとがさつに腰を下ろした。人ん家の物の配置をほぼ把握しやがって好き勝手やってくれる奴だ。渋いだのなんだのと文句を言いながら、ユーリはカップを傾けてぐいぐい紅茶を飲んでいる。


「で、何か用?」
「別に」
「帰って」
「断る」


新たにビスケットを口に放り込みながらユーリは笑う。何が可笑しいのだか知らないが、そういえば入ってきたときからいやに朗らかだ。
艶のある長髪が彼の動きに釣られて揺れるのをぼんやり眺めて、フレンの恋人だという女性はいったいどんな人なんだろうかととりとめなく考える。人間性について、容姿について。たとえば、私に彼女を打倒する力があったとしたら。とりとめのないことだった。それなのに考えてしまう。
でもきっと彼女を打ち倒したところで手に入らない。フレン・シーフォはたったひとりを愛しぬく。きっと。

「飲んだら帰ってよ」
「だから、断る」
「なんで」
「言っていいのか?」

……嫌な男だ。
ユーリの視線から逃げるようにカップとソーサーを片付けに立ち上がる。流し台にもたれて腕を組んで見やると、椅子に座ったまま背もたれに腕を乗せて、ユーリは私を振り返った。何でも知っているという目だった。私は昔からこいつの不敵な訳知り顔が大嫌いで、それがはったりなんだと分かっていてもどうしても許せないのだ。ユーリに見透かされていると思うのがたまらなく悔しかった。


「ひとりになりたいんだけど」
「俺はお前をひとりにしたくない」
「泣いてるところ見たいわけじゃないでしょう。出てってよ」
「見たい」
「出てけ」


窓から放り投げる以外こいつを外に出す方法が思いつかない。ユーリはまたしてもラスクを取って齧った。
ユーリが二枚目のラスクをガリガリ噛み砕く音が耳につく。下唇を噛みしめて、苛立ちを鎮めようと私はうつむいた。──こんなことなら最初からフレンを好きにならなければよかった。信じられないことに泣きそうだった。

フレンは、自分の恋人になった女性をきっと大切にする。至高の宝物のように。
至宝。彼にとっての。
泣けばもしかしたら悲しさや悔しさを飛び越えていっそ清々しくフレンを祝福してやれるようになるのかもしれないが、しかしそもそもそれができるんだったら未消化な初恋をいつまでも引きずる道理はない。泣いたら、自分自身でさえ顧みなかった負けっぱなしの片思いを決定的にしてしまう。
視線が注がれ続けている。私は観念してユーリと正面から目を合わせた。


「お前がそうやって素直に泣けないだろうから、肩貸しに来たんだろ?」


フレンが好きだった。口にも態度にも出さなかったけど、それでもずっと好きだったのは本当だ。
ユーリが椅子から立ち上がった。こちらに向かって腕を広げて私を見ている。泣けるわけない。ましてユーリの前で。意地が勝って、手前に差し出されたユーリの片腕を叩き落とす。


「お前、人の厚意を…」
「泣くかバカ」
「強情なやつ」


ひとつため息をつくと、ユーリは私の手首を掴んだ。引っ張られるままユーリの無防備な胸板によろめいて、私はあっという間にその二の腕に拘束されて逃げられなくなる。耳をつけたユーリの左胸から心音が聞こえた。胸借りようが肩借りようが泣く気はしなかったのに、頭上でユーリがやたらに切ない声で名前、と私の名前を呼ぶものだから思わず一瞬うるっときて、引っ込めようと慌ててまばたきをした。落ち着かないといけない。こらえなくちゃいけない。……でも泣いたらすっきりするんだろうか。

突き詰めて言うなら今もフレンが好きだ。彼が幸せなら私も幸せ、なんて殊勝なことは言えないし強いて言うなら一緒に幸せになるのは私が良かった、とか。けど願望はなんにも形にならなかった。ただの妄想で終わった。私は今の昔馴染みのポジションを手放さないようにするので精一杯の現状に激突して、身動きが取れない。
じわじわとまぶたの裏が熱くなってきて、それは堰を切るとあっという間にユーリの胸元を濡らした。強がった割にあっけないものだった。
ユーリはしばらく労るようにそっと私の背中をさすっていたが、突然やめた。そして痛いぐらい思いきり腕に力を込めた。


「お前がこうやって泣き見るくらいなら、最初から俺が掻っ攫っときゃ良かったのか?」


痛い、などという抗議の間も無かったので、代わりに私は鼻をすすった。ユーリの顔を見上げようにも奴は依然として腕を弛めない。


「……何、どういうこと」
「お前が好きだってことだよ。それも大昔からな」


初耳だった。びっくりした拍子にユーリの服を思いきり握りしめていた。彼の腕は少しだけ震えている。口調の割に彼が緊張していることに気付いてしまって愕然とした。まさかそんなことあるわけない、と頭の中で自分が自分を罵倒している。だってユーリは、あの可愛らしいお姫様とデキていたんじゃなかったのか。こいつが私を好きだと言ってくれるのは、だってフレンと同じ意味だったんじゃなかったのか。間違えようもない友愛として。


「なにそれ……初耳、そんなの」
「……好きなんだよ。寝ぼけてこんなこと言えるか」
「でも」
「人がこんな恥ずかしいこと素で言ってるってのにまだ信じらんねぇとか言いやがったら、お前最悪」


腕を外そうともがくと、案外あっさりユーリは放してくれた。
出てって、と言った私の口は震えていた。今つけこまれたらあっさり傾きそうでそれが怖かった。そんなのはいやだ。私はまだフレンを一番好きな私でいたい。
涙で湿った左の頬を拭って、私は部屋の正式な出入口を指差す。ユーリは一見諦めた様子で両手を挙げて、私が指差した方とは逆、窓辺にすたすたと歩み寄っていった。


「こっちも卑怯は承知だからな。長期戦でいかせてもらうぜ、名前」


彼に女として好かれることの意味を、私は、理解できないままでよかったのだ、ずっと。きっとこんな日が来さえしなければいつまでだって。

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