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※花吐き病パロディ




「病院、行ってきたんだ」
「どうだった」
「嘔吐中枢花被性疾患」
「は?」

うん、と頷いた私を見て、彼は明らかに動揺した。
2月。気温1桁の昼前。彼は灰色のスーツ姿で震えもしていなかったのに、青い目だけが急に痺れたように揺れる。それをごまかすようにスーツの胸元を探って出したのは煙草の箱だった。好きでもないのに携帯しているのだ。フィルムも取っていない新品の状態で現れたパッケージを乱暴に開封する。
何かを探して右往左往する彼の視線が、私がコートのポケットから出したライターを捉えた。

「タバコは持ってるのに火は持ってないんだねえ」

火をつけて、風除けの手と一緒に差し出す。彼は大人しく身を屈めて、フィルター越しの冷たい空気を吸い込んだ。私がからかって笑ったのは無視して、降谷零はしばらく無言で煙草をふかしていた。
立体駐車場の端に、灰色がかった弱々しい陽の光が差している。横並びに立ったまま、私は彼が吐き出す紫煙を眺めていた。

「相手は?俺の知っている人物か?」

彼が聞いた。親指の関節で眉間をぐりぐり押して、眠気を追い払おうと厳しい顔をしている。

「知らないんじゃないかな」

嘘だった。私の好きな人が、自分が好かれていることを「知らない」という意味なら、何も間違ってはいないけれど、質問に対する返答としてはまるで嘘だった。
しらっと嘘をつかれたことを知ってか知らずか、降谷は考え込んでいる。私はコートの前を集めて、寒さに肩をすくめた。

「症状はどの程度進んでるんだ」
「潜伏期間が長かった割に重篤ではないって。まあ、出るものは出ちゃうけど」

最近体調が優れない、と彼に打ち明けたときは、ほんの軽い気持ちだった。寒暖差にやられたかなとか、インフルエンザが流行ってるからとか単にそのくらいのやりとりで、深刻な病気の心配はしなかった。
──近所の病院に行って、うちでは診れないと言われて、紹介状を渡された。行った先の大学病院で下った診断が「嘔吐中枢花被性疾患」。
混乱した。花なんて吐いてない。衝撃を受けている私の目を見て、壮年の医師は「いずれわかります」とだけ言った。経過観察と共に神経内科、心療内科の両面からの治療を施す。初診で説明されたのはそれだけだ。具体的な治療法については何もなかった。
程なくして本当に花を吐いた。体組織の何がどうなってこんな現象が起きるのかさっぱりわからない。衝撃体験を特集するようなバラエティで、たまに取り上げられる奇病。
口から出てくる花は藍色で、小ぶりな花弁が4つ。いつもそれだ。吐き気に朦朧として、それがなんの花かよくわからない。

「……治る見込みはあるのか」
「どうかな」
「真剣に聞いてる」

降谷は飲み終わったコーヒーの空き缶に短くなった煙草を放り入れて、その缶を足元に置いた。吐く息が白い。彼の動揺はすっかり鎮められている。

「相手次第だし、わかんないよ」

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家にいると、気が抜けているせいなのかよく吐くようになった。職場では咳き込んだりもしないのに。軽いめまいを起こすことはあっても、日常生活に支障はない。処方された薬も飲んでいる。神経系のなんとかいう部位を休める薬。
洗面台の白いボウルに鮮やかな青い花が散っている。一過性の吐き気が去って冷静になってくると、その花の密集に見覚えがあることに気付いた。………紫陽花。

水をちびちび飲んで口の中の違和感をごまかしながら、スマホの検索フォームに「あじさい」と打ち込んでみる。簡単な解説がすぐに出てきた。
「一般に花といわれている部分は装飾花」「花びらに見えるものは萼(がく)である」
私が吐いているのはつまり厳密にいうと花ですらないらしい。
同じページに載っていた「辛抱強い愛情」とか「一家団欒」とかの花言葉にピンとこないまま各項目を眺めていると、不意に画面が着信中に切り替わった。番号と、その上に「降谷 零」の文字。

──お前の病気の件だ

電話なんて珍しい、と茶化す隙もなかった。仕事の合間に少し調べたのだと彼が言う。
つぶやくような低い声は少し疲れているようだった。仕事が殺人的に忙しいようなのに、たかが女友達1人のために彼は優しかった。………心の壁が厚く高い一方で情の深い彼にとっては、「たかが」で括れるような友人はいないのかもしれない。

──活性化と沈静化を繰り返すそうだが、人命を奪うほどの病気ではないらしいな
「そうみたい」

私は床に転がって目を閉じた。
落ち着いた、気疲れしたような、奥にこもる声。目の前に彼がいても出なかった症状がぶり返してくるのを感じて、ゆっくりと深呼吸した。彼の声を味わいたい気持ちと、花が喉の内側を押しのけるむかつきがせめぎ合っている。
花を吐くのは、ある意味でアレルギーのようなものだ。本来は無害なはずのものを免疫系が過剰に攻撃して、嘔吐という形で反応を起こしている。

──もちろん完治するに越したことはないだろうが、お前の言う通り、相手次第だしな

彼の言葉を遮らないように相槌を打つ。ほんの少し咳き込んだ拍子に、花びらが舌まで上ってきた。


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同期5人でと聞いていたのに、約束の時間に店に着いてみたら、待っていたのは1人だけだった。同期で一番結婚が早かった男で、奥さんが今妊娠中で、最近仕事だけでなく私生活に関しても愚痴やぼやきが頻発しているので、それを発散したくて飲みたがったんだろう。
「他のみんなは」と聞くと、「誘ってない」という。今日は俺とお前だけ、となぜかドヤ顔で。
「なに?何かやばい話?」深く考えずに着席してコートを脱ぐ。相手は口の端をゆるめて少しだけ笑った。
「酒が入ってから言うよ」……もったいぶるな、とは思っても、気にしなかった。会社辞めたいとか部署移りたいとかの決まりきった愚痴だろう。いつも言っている割に一度も実行に移されない彼の話を重く受け止めたことはなかった。共通の仕事の愚痴は言い合っても、こちらからプライベートな部分を打ち明けたりはしない。そういう、その程度の相手と一対一というのはそれこそ酒でも入らないとやっていられなかった。

「好きなんだ、お前のこと」

彼は酔いが回ったとは思えない真っ白い顔をして、重大事を打ち明けた、という神妙な口調だった。
まだビール1杯しか飲んでいない。

「……もう酔ってんの?嫁さんに今から帰るって電話しなよ」
「嫁とかのことはこの際、気になるとは思うけど、関係ないことって思ってほしいんだけど」

関係はある。大アリだ。ふつう既婚者の好きな人は配偶者一択だし、もしも仮に本当に彼が私のことを好きだったとして、その好きな女に不倫しろっていう道徳ゼロの要求をしている自覚はないのだろうか。私の意志に関わりなく彼が勝手に、妻に対して働く不実に目をつぶれというのか。
相手に嫌悪感を持つのと同時に、叶う当てのない自分の恋愛のことが過ぎって苦しくなった。降谷にそう思われたとしたら。それがとても怖い。

「そんなこと言われても無理、困る。……気分悪いし帰るわ」

テーブルに千円札を置いて席を立つ。後ろで何か言っている同期に捕まらないように、傲然と早足になった。煙草と料理の匂いと、慌ただしく立ち働く店員の間を縫って外に出る。空きっ腹にアルコールを入れたせいなのか、脳裏にちらついた自分のどうしようもない片思いのせいなのか、本当にむかむかと気分が悪くなってきていた。

片手に掴んでいたコートを着る。鞄にエチケット袋があったな、と思い出して、でも吐くならどこかでトイレに入るなりしたい……頭が芯をなくしたようにぐらぐらと揺れる。道端に花を零す想像をしてため息が出た。
店を出た瞬間の威勢は消えていた。取り急ぎ地下鉄の入り口を探さないといけない。

大通りを目指して歩き出すと、車道側に白い影が現れて、私の鈍足に合わせるように並走して減速した。
気付くと、その車は歩道に横付けして完全に停車していた。助手席側の窓が開く。

「ずいぶんしょぼくれてるな」
「まあね。そっちは?仕事終わり?」
「まあそんなところかな。……乗っていくか?今なら安全運転だ」

エキゾチックな美丈夫なのに、公僕の苦労丸出しで目元にクマを溜めている彼の苦笑に、私も脱力しきって笑い返した。ふっと肩の力が抜けて、夜風が顔に当たるのを感じた。
いつも颯爽としているイメージの降谷に仕事終わりのくたびれた雰囲気があるとなんだか親近感が湧くのはどうしてなんだろう。こいつも人の子だったかという安心なのか、高嶺にいる彼が自分の基準まで降りてきたように感じるからなのか。

気がゆるんだ拍子に「ありがとう」とふつうに乗り込んでしまいそうになるのをぐっとこらえる。
彼の車に乗るのはどう考えてもよくない。花粉症のくせにシーズン中の杉並木の下をマスクもしないで散歩するようなものだ。

「なあ、送っていくよ。顔色が悪い」

重ねて言う彼に、大丈夫だから、と断ろうとして、目の奥がくらりとした。まだ頭の真ん中で芯が抜けたままになっている。さわやかな風すらはらんだような甘い誘いをはねのけられない私に、なにより問題があった。

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シートに深く体を預け、息をつく。車内に満ちた石鹸のような清潔な香りに胸がいっぱいになるようだった。ハンドルをゆるく掴んだ降谷の手を、横顔を見て、余計に苦しくなる。……結局やってしまうなんて、わかっていたのに乗るなんてばかだった。
ぐうっと上ってきた感触に、慌てて鞄からエチケット袋を出す。針で刺されたように顔の筋肉が張り詰めて痛んだ。

「ごめん」と断りを入れた私の細い声を拾った降谷が、気遣わしげに流し目をよこしたのが見える。私はそれ以上なにも言えずに、勝手に助手席の窓を開けて外気を入れた。
車が通りを外れ、どこかの路肩に停まる。
降谷はエンジンも切らずに運転席から立ち去ったかと思うと、すぐに戻ってきた。水のペットボトルを持っている。

「ほら」
「ごめん、ありがとう」
「いいから。ゆっくり飲めよ」

お言葉に甘えて少しずつ水を口に含んだ。余裕のない状態にあると、ぶっきらぼうで端的な彼の口ぶりがありがたかった。
乱れた髪をかきあげて、涙の出た目元をこする。暖房の風が上半身を折り曲げた私の前髪を揺らした。
窓の外からはほの青い電光が差し込んでいる。降谷は愛車のハンドルに肘を置いて、身体を起こして深呼吸を繰り返す私の手元を見ていた。袋の中身は、隠しても今さら遅い。

「……紫陽花か」
「うん。あじさいの色がある部分って実は花じゃないらしいよ」
「豆知識を仕入れてる場合か、まったく」

彼の呆れたような苦笑は優しかった。その顔を見るだけで心苦しいくらいに。
その微笑がふっと引っ込められた途端に、ときめいてる場合じゃないと気付いた。

「で?ここまで親身になっている人間にも、病気の原因を教えてくれないのか?」

言いながら、大きな垂れ目がじっと見つめてくる。雨に打たれる子犬みたいな潤みきった青い目。

「あなたの親切には本当に感謝してます。本当に。だからそんな目で見ないで」
「………しぶといな」

演技が通じないと悟るや、降谷は思い出したように車のエンジンを切ってシートに倒れ込んだ。かすかな震動がやみ、暖房が止まる。沈黙が長続きする間に、私はもう一口水を飲んだ。

「頑なに教えない理由を考えてみたんだが」
「好きな人推理するとかほんと野暮だからね」
「じゃあ1つだけ確認。相手は既婚者や犯罪者じゃないよな?」

咳き込んだ拍子に、引いていた波が返ってきた。降谷が私の背をさすって、追い討ちじみて何か言っている。

「よっぽど相手につれなくされてるのでもなければ、そんなに苦しまないはずだ。……それに紫陽花の花言葉は、"あなたは美しいが冷淡だ"。こう聞くと、なにか道ならぬ恋にハマってそうだろ」

推理するなって言ってるのに。抗議する元気もない。
彼は、自分の固くあたたかな手のひらで私の背を支えていることが何よりよくないことにも気付かないのだ。

「さすが博識でいらっしゃる」

枯れた声で混ぜっ返した私の軽口を、彼は何でもないような顔で聞き流した。

"あなたは美しいが冷淡だ"。降谷零のことを、私がそう思っているということなのだろう。友達思いで信義に篤く、他人を絶対に立ち入らせない聖域を持っている彼を。
私は知ったかぶって国境線の手前で止まり、彼はあからさまに安堵する。そういう彼のことを、ずっと変わらずに友達として好きでいられたらよかった。
女性に好かれることに慣れていて、好意に安んずることがない。その降谷に、恋愛的な意味で屈してしまって後ろめたかった。私は単なる友達で、あなたを害さない、あなたを理解したい……そういうポーズでゆっくりと彼から遠ざかろうとして、時々連絡を取り合うだけの関係になってちょうどよくなったはずが、自分が切羽詰まった途端に助けを求めてしまった。病気のことを打ち明けて、まるで私の片思いを知ってほしいみたいに。

丸めた背中から手が離れていく。触れられていたところにじんわりとあたたかい手形が残っている気がした。
息を整えていると、降谷がまた口を開く。

「なあ、今日はずっと1人だったのか?」
「同僚と飲んでたんだけど、ちょっと揉めたから先に抜けた」
「ホォー……その同僚っていうのは、痩せ型で色白で紺色のスーツかい?」

どうして、と聞く暇もなかった。コツコツ、と指の関節でガラスを叩く音。呆れたような半眼の降谷を見つめたまま、私は振り返らなかった。
確かに、彼の車はさっきの店からそう遠くないところに停まっている。私のなかなか治まらない嘔吐があり、多少話し込んでもいた。
でもだからって他の男の車に乗ってる女に声かけようと思う?ふつう。

「図々しいお願いで恐縮なんですが、あの……このまま送って頂けますでしょうか?」
「やっぱり既婚者じゃないか」
「違うんだってば」
「指輪してるぞ」
「そういう意味じゃない」

文句を言いながら、降谷は挿しっぱなしにしていたキーを回した。おそらくそこにいるであろう同僚を置き去りに、白い車が公道に滑り出す。


「どういう揉め方をしたのかは聞かないでおくけど、気をつけろよ。どうしようもない輩ほど情にもろい女を嗅ぎ分けるのが上手いんだからな」
「あの人全然好みじゃないし。別に情にもろくもないし」
「それは自己分析が甘いな」

信号待ちで車が止まる。もらった水のペットボトルを両手のひらで転がしながら、言葉に迷った。
私が情にもろいタイプだとしたって不倫はお断りだし、そもそもあなたが好きなんだけど。………言ったところで、気持ちを汲んでもらった上に丁寧に拒まれるだけだ。
膝に置いてあった、口を結んだエチケット袋を鞄に押し込む。
黙っているうちに、車はまた低速で走り出した。
自己分析が甘いとはどういうことだろう。彼の放った何の気ない一言が不意に引っかかった。情にもろい。そうだろうか。

「降谷は情に厚いよね」
「どうかな」
「病気のこと、変に打ち明けてごめんね」

他にたくさん彼を必要としている案件がある中で、こんなこと言って困らせてごめん。そういう意味の謝罪で、それに彼は応えなかった。
ペットボトルのキャップを緩める。次に車が止まったら飲もう、と思って。
なのに、指定した曲がり角をタイトに左折したのを境に、降谷はスピードを上げた。
美しい造形の横顔は正面を見たまま、さらっとした無表情でいる。私は彼の垂れ目の縁を視線でなぞり、しかめられた眉を見た。
帰路を急いでくれているのだと思ったから、おまわりさんのスピード違反、と皮肉めいた笑いをこらえただけで、何も言う気がしなかった。


部屋の前まで送ると頑なに言い張る降谷に異を唱える余裕はなかった。かと言って手や肩を借りるのは憚られて、吐き気の揺り戻しをこらえながら、彼とエレベーターに乗った。
友達ってこんなことまでしてくれるものだっけ。
社会人になってからというもの、女友達ならばいざ知らず、男の友人と疎遠気味なせいか距離感がさっぱりわからなくなっている。

「なあ、なんで謝ったんだ」

玄関の前まで来て、彼が言った。唐突だった。糸が張り詰めて、ついに切れたみたいに。

「多忙な人に、個人的な悩み相談まで背負わせて悪かったなと思って」

彼は何か言いたげに下唇の端を噛んだ。たっぷりとした睫毛を伏せたその陰に、底の見えない青い目が光っている。
……彼の友達でいよう、と心の中で唱える度、余計に好きになる気がした。彼に女を出して惨敗する結果が見えていて、それが怖い。
彼の友達でいたい。どうせずっと片思いなら、せめて親しい相手でありたい。

「僕は結構、友達甲斐のある人間だと思うんだけど」
「……だからもっと供述をしなさいと?」
「まあ、端的に言うと」

彼の確信めいた表情に頷き返しながら、鞄の内ポケットから自宅の鍵を取り出す。彼が促している先を口にするつもりがあまりなくて、かと言って追及をかわす方策もない。

「立ち話もなんだし、上がってく?」

いろいろな疲労がない交ぜになってやみくもに出た提案で、さすがに断るだろうと思ったのに、相手は一考の後、
「そうしよう」
と快諾した。


平日ほとんど家にいないせいで物を動かすということが少なく、そういう意味で私の部屋は整然としている。入居当時に決めた物の配置から何も変わっていないこの部屋に、男友達を招き入れたのは初めてだった。
降谷がいるという個人的な違和感と、単純に彼の体格のよさとが部屋の枠を歪めて、不意に狭くなってしまったように感じる。

「相手には言わないのか」

降谷は、まったく率直に話の続きを始めた。紅茶かコーヒーかウイスキーか、悠長に彼に飲み物を勧めるつもりだった私は鞄をソファに放った。

「言わないよ。その人は私といい友達でいたいんだから」

恋愛感情抜きで、ただ一個人としてのかれへの尊敬があって、高嶺にいるのにちらりと見える親しみを好きだと思う。
そうであるとでないとは、どこで切り離していいのかわからないくらい交じり合っていて、気持ちの置き所に迷う。どこまで突き詰めても友情や親愛だけが組成なら、こんなにややこしくなかった。花だって初めから吐かない。

「下心がばれるのも気まずいし」

鼻先で笑った声に、自分でも嫌になるような自虐の響きがあった。どれだけ心情を言い繕ってみても、結局やましいし、私はかれを好きだった。
現実味なく私の部屋に佇立した降谷は、静止画になってしまったように動かない。夢なのかも、とちらりと思った。酔ってもいないのに、帰ってくるまでのことを全部忘れて今、私は寝ているのかも。
自信がなくなってきた頃に、降谷の口が動き出した。

「お前の病気、沈静化する状況には何パターンかあるようなんだ。相手への想いを吹っ切れたとき、別に好きな人ができたとき…」
「つまり?」

かれの踏み出した一歩が大きくて、私は逃げられなかった。胸の周りの骨が震えてでもいるように、内側で心臓が激しく動いている。無理やり奪い取ろうとはしないで、かれは硬くてあたたかい手で私の顎を上向けさせた。視線がぶつかる。青い目が揺れている。頑なな態度の奥で、何かが麻痺しているみたいに。

「どうしてもそいつじゃないとだめなら、考えるけど」




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目が覚めたとき、まだ外は暗いようだった。私はひとりでベッドにいて、隣室からかすかな人の気配がした。昨日のことは切れ切れに頭の端に引っかかっていた。ぬるくてぼんやりとした夢の続きのように。
掛け布団を押しのけて、カーペットの上に足を下ろす。体調はよかった。喉の通りがやけにいい。

掃き出し窓にかかった遮光カーテンの端がほんの少し開いている。降谷零が立っていた。うっすらと青い夜明け前の光に、美しい横顔が稜線を描いている。
彼が私に気付いていないはずはなかったが、お互いに黙っていた。
リビングに入ると、ローテーブルの上に昨日私が飲んだのと同じ水のペットボトルが置かれてあった。細い飲み口に、葉を剪定された白銀の百合が刺さっている。

「さわったの」

写真の向こうにあるように静かだった降谷の横顔がこちらを向く。ああ、という気のない返事に、寝起きの身体が拒絶するような冷や汗をかき始めた。
白銀の百合を吐くのは完治の証拠だ。想いが通じて、私はもう花を吐かない。
でもそれを、百合を触った人はどうなんだろう。花が病気の因子を持っていることに変わりはない。

「いいだろ。僕の方でも成就してるんだし」
「将来的に発症するかも」
「そのときは、翻意した男が苦しむのを楽しんだらいい」

果たしてそのときの私に、かれの病身を嘲笑する余裕があるかはわからない。されるがままかれの腕に抱きしめられて、私は茫然とした。

「そんなに自滅的な人だと思わなかった」
「お前が思うほど冷淡な男じゃないってことだよ」

低い笑声が起こした振動が私の体をあたたかく揺らす。
かれにしてみれば紫陽花の花言葉を皮肉って言っているのだとしても、自分自身にまで冷淡であることには変わりがない気がした。

「もう少ししたら出ていくから、それまでコーヒーでも飲まないか。昨夜出してくれるつもりだったみたいだし」
「インスタントだよ」
「なんでもいい。一緒に飲むっていうのが肝だろ」

テーブルの上で、白銀の花弁が薄明にぼんやりと光を放つ。かれのこの態度が、昨日の出来事が、何もかも夢でも嘘でもないことを示している。

不揃いのマグカップを並べたこれが、私たちが一緒に迎えた最初の朝。



pixiv投稿文再掲

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