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彼氏のことを好きな理由? うーん……顔とか身体が好きとか言うのって長続きしないって言うじゃん。好きな部分がなくなったら別れちゃうんでしょみたいな。でも性格が好きとか優しいからとか気が合うとかっていうのも、きっかけあったら全部なしになる話だし。え? うん、あるよ。理由。絶対本人に言っちゃダメなやつ。



 3月の初頭、オープンテラスに座るのが苦にならない時期には、なるべく外の席に座ることにしていた。春先の期間限定フレーバーのアイスティーと、恋愛の話さえあればかなり間が保つ。どんなに独創性に乏しくても、恋にまつろう現状や心情を交互にあげつらっていくのは楽しいことだった。


「あいつに言えない理由って何? 名前ちゃん」

 派手な化粧の巨乳を連れたドレッド頭の男が、テラス席の真っ白い椅子にどっかりと腰を下ろした。友達と私の間の椅子に彼だけが座って、女の方はじろじろと遠慮なく私たちを値踏みしている。植込みの葉を揺らすさわやかな風が、場違いにぴりついた空気を追い立てるように吹きすぎた。
 サングラスの奥の目が、かれの双子の兄と全く同じと言っていいほど似通っている。ぎょっとしてその顔を見つめた私を意に介さず、彼はクロスのかかったテーブルの上へ身を乗り出した。

「ていうかあいつとヤッた?まだ?」

 話には聞いていても、実際に会ってしまったのは初めてだ。初対面で、真っ昼間で、街角だ。下品な質問に口ごもっていると、相手は不意に人懐こいような笑顔を見せた。

「嘘ウソ。急にごめんね」

 金剛阿含。かれの双子の弟。女好きで乱暴者で高圧的な、話に聞いただけで嫌になるような天才。雲水はその弟の話はしても、私と彼を引き合わせたがってはいなかった。雲水は控えめに微笑して「合わないだろうしな」と言って、極力弟と私との接触の機会を回避させてきた。私も私で、まさか弟さんのほうからやってくるとは思わない。

「弟さんですよね」
「そう。雲子ちゃんの弟の阿含です、よろしく」

 金剛阿含は、尤もらしい愛想のよさに含めた辛辣な目の動きを隠そうともしなかった。雲水の乱れのない金属質な態度とは紙一重の、刃物の雰囲気。

「俺とも仲良くしようぜ、なァ?」

 私が弟と“仲良く”なったら、雲水はどう思うのだろう。妬ましく思うことさえやめてしまったほどの相手と、自分を好きだと言った女とが、交友を持ったら。
 もし私がかれの立場なら疑わずにいられない。

「遠慮しておきます。あなたとは気が合わなさそうだから」


金剛雲水の、屈折したところが好きだ。受けた屈辱や堅強なほどの劣等感を才能至上主義の正論でねじ伏せて、手加減なく自らに陰の役目を課した、その彼のゆがみが好きだ。透徹した論理によってしか報いを受けられないと感ずる彼のことが。




「阿含と会ったのか」

 とても静かな声だった。深沈として情緒が息をひそめ、硬質な鱗を鎧った面持ちと寸分違わず、研ぎ澄まされていた。
 それを深々と受け止め、私はただ頷いた。言い訳のしようがない物理的な事実を隠し立てできるほど嘘がうまくないと自覚しているためだ。身体がすっかり疲弊して休息を要求している。

「あいつ、何て?」
「もうヤッたかって」

 あいつはそれしか頭にないのか。お小言のような呟き声と薄いくちびるが、閉じた瞼に被さってくる。ミネラルウォーターのペットボトルをどこかに置いた音がした。するすると肌に擦れるコットンリネンと、かたわらに戻ってきた体温とが心地よく入眠へ先導してくれるのに任せてしまいたい。

「それで、何て言ったんだ」
「私? 何も。びっくりして、何も言えなかった」

 とろとろと口を動かす私に、雲水が呆れている様子はなかった。そうか、よかった。穏やかな口ぶり。なにがよかった、なのだろうと考える思考の端がふやけてちぢれ始めていた。

「私、弟さんと仲良くならなくてもいいよね?」
「……眠いだろ。少し寝るといい」

 かれが質問に答えてくれないことは、たまにある。だから疑問には思わなかった。何も言わないということは、気にしなくていいということだ。雲水の言葉少なな気遣いを私は愛していた。


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「どうしたの」
「兄弟喧嘩してきた」

 不思議なほど無頓着な口ぶりで言ってのけて、雲水はベッドの足元にゆっくりと腰を下ろした。全体にシャープな線を描くかれの輪郭が、頬が青黒く腫れ上がっている。慄いている私を、かれは「平気だよ」と優しく一笑に付した。病院には一度行ってきたという。派手に腫れているだけで、口腔内は少し切れて血が出ただけだと。それでもおそろしい形相になってしまったことは間違いなかった。
 おろおろする私に、ただの喧嘩だ、とかれは言う。でも話に聞くところの「阿含」はめっぽう喧嘩が強いと言うし、そもそもアメリカンフットボールの現役選手で、ベンチプレス90s以上の者同士が殴り合いをしたら、それはもうほとんど命の取り合いだ。ただ事ではない。

「阿含が名前にちょっかい出したと思ったら、むかついて。心配させてごめんな」

 むかつく、なんて雲水にしてはずいぶん子供っぽい言い方だ。男兄弟の喧嘩はこんなにまで激しいのに、当人が淡白なのが怖い。
 口端まで広がる打ち身の青い色を見ると、かれが求めてくるキスに応じるのもためらわれた。ケガが治ったらと拒もうとした私を雲水は両腕で押し留めた。乾いた理知的な視線が肌の上を走る。心の起伏を拉ぐような重さで、いいから、とかれが言う。

 かれを、あやうい、と思うことはあった。だからこそ好きになった。強靭な精神性を携えていながら、芯に柔く傷つけられた肉を抱えたかれのことを。もしも、かれが内側から軋み撓んでついには折れてしまうとしたら。そのときに自分にできることを考えていたはずだった。ただとなりにいて、鍛えられたしなやかな体躯に寄り添うだけではいけなかった。たぶんそれは正解ではなかった。なのに今目の前にいる雲水の、名にそぐわず流れも行きもしないずっしりと硬く、質量を伴った気配に圧されている。

「大丈夫だから。だから、あいつとは」

 言葉の続きはかれの口の中で消えていった。拉がれて、すり潰されてしまったみたいにゆっくりと。

 どうしたらかれの不安と動揺を取り除いてあげられるだろう。思いつく限り、それだけでは足りないと予感しているのに、どこへも行かずにこの重みだけを愛することが私にできるすべてなのだと感じ始めている。絶対に言ってはいけないと自戒して噤んできたのに。あなたを好きな理由。透徹と、厳しい自律に抑えこまれて、なのに暴発も許されないかれの。
 熱くて陰に篭もった、かれの声。すがってくる腕に連なる筋肉の隆起。つかまれて巻き込まれて、一緒になってうずくまっていたい。きっとそれしかできない。

「なんにも心配しないで。大丈夫だから。ねえ、雲水、わたし」

 やわらかい、かさついた唇の感触に続きを押さえ込まれて、私はじっとかれの頬骨を見た。好きでたまらなかった。
 かれの腹を焼いているものを、私がそれを全部受け取ったら、そしたらもしかして、あなたは私のことなんて必要じゃなくなるかもしれない。でも今は、今だけは。


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