| ナノ


 大浴場から部屋に戻るまでにちょうどいい感じに自販機のスペースがあったので、お風呂のあとに何か買おうと最初から考えていた。

「お、よォ苗字」
「おー、偶然」
「考えること一緒かよ」
「いや、風呂上がりはまるごとみかんでしょ」

ごとんと重たい音で500ml缶が足元の取出口に落ちてくる。花巻が「それな」と笑って、缶ジュース一本分の小銭だけ持った手を開いた。

「これね、さっき及川クンから巻き上げたジュースのお金」
「あんま及川くんいじめないであげなよ……」

はっきり答えないでからから笑って、花巻はまるごとみかんジュースのボタンを押した。ロング缶も手の大きい男子が持つとずいぶん短く見える。

「風呂の前に卓球台あったじゃん。あれで勝った」
「ああ、騒いでたのバレー部だったんだ」

浴衣の腕をまくって卓球のラケットを持ったバレー部の四人組が、風呂上がりのジュース代をかけて戦うところを思い浮かべてしまう。さぞ見応えのある熱戦だったに違いない。ほとんど一日中観光地を回ったあとでよくそれだけ元気があるものだ。

「からかってるだけならやめてよ!」

急に自分たちと無関係の場所から女の子が声を張ったのが聞こえて、缶のタブを引き上げた花巻の手が止まった。私は飲み口に唇をつけたまま動けなくなった。通路の奥で一悶着しているらしいと感づいたお互いの目が合う。
すぐに通路の角からスリッパを履いた足音が近付いてきて、ホテル名がぎっしり書かれた浴衣を着た女子が足早に自販機スペースの前を通り過ぎていく。その後ろからまたしても浴衣の男子が走ってきて、その彼女を捕まえた。ドラマのワンシーンみたいに劇的な人の動きに、私も花巻も横目を見張ってしまう。私たちもまたその浴衣を着た男女ではあるのに、今は圧倒的なラブシーンの端のモブでしかない。背景に溶け込む通行人A、Bの視線は主人公たちに釘付けだ。

「本気だって」

きっぱりとしたその一言は真摯だった。女子の方を私は知らないが、男子はクラスメイトだ。怪我で部活の前線から退いて以来髪を伸ばしていると言っていた。








「や、野球部〜……意外〜……」

思いがけず人がいたことに気付いたふたりがそそくさと立ち去ってから、私は詰めていた息をようやく吐き出した。アルミ缶の内側にふぬけた自分の声がこだまする。

「修学旅行中にくっつくやつなんて本当にいるんだ」
花巻のひとり言みたいな一言に、ほんとそれね、と返してから、不可抗力とはいえ覗き見してしまった罪悪感が急にやってきて私は黙った。花巻も特に何も言わず斜めに視線を下ろした。なんとなく、さっきのふたりが残り香として置いて行った甘ったるい混乱に空気が引っ張られているのを感じる。

「俺らもああいうことする?」
「無理。これから部屋帰って枕投げして大貧民やって雑魚寝する予定だから」
「早いよ、返事が」

明らかな便乗で茶化しただけのくせに花巻の苦笑は弱々しかった。本気にされたら困るくせに、「冗談じゃん」などと何げなく身をかわすくせに。オブラートに包んでまろやかに悪態をつく才能があれば言ってやれただろう。実際はその辺の加減がずさんなので、下手なことを言わないようにまるごとみかんの缶を傾けた。相手も手持無沙汰にそうした。
反応を窺うような、相手に手番を譲るような沈黙があって、それから花巻が折れた。

「ハーァ、ふられたし部屋戻るわ」
「はいはい、お疲れ」

つい今さっき不発に終わった軽口を繰り返して、花巻は缶を持ったまま廊下へ出て行った。その足音が遠くなっていくにつれて、これまで平然としていた両足から力が抜けた。ふにゃふにゃになった膝を抱え込んでうずくまる。
 からかってるだけならやめてほしい。……本当にそれだけ。

title:深爪
×