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 彼に私以外の女がいることは明白だった。何のためにキープされているのかわからないほどの厚遇を受けているのに、それでも彼は私だけに心を砕いているわけではなかったのだ。
 一緒に出掛ける場所からプレゼントの的確さに至るまで、喜ばせようとしてくれるそのホスピタリティの源泉がどれほどの規模のものであったのか正しく認識できていなかったとは思う。でも責められるべきほどの過失だっただろうか。私ひとりに向かってくるものと信じることの何が悪いと言うのだろう。決定的な物証を発見するまで、私は彼に対して微塵も疑いを持たなかった。……一夫多妻制の夫というのはこういう要領で妻たちを平等に扱うものらしい。気取らせず悟らせず、自分だけが特別な女だと思い込ませるその労力を惜しまないバイタリティにはもはや敬意すら感じる。
 でも「ほんと尊敬する」と口先で言いはしても、現代日本は一夫多妻じゃないし。一夫一婦制度の家庭環境で育ってきてるし。婚約とか結婚とかしている段階で浮気がわかってたとしたら慰謝料が取れるし。




 私の頭より高い位置から、赤葦くんが少し身をかがめて顔を近付けた。かれは、いつも清潔な香りがする。私は閉じていた目を開く。律儀に閉じたかれのまぶたを眺めて、割り込んでくる生温かな湿り気を舌の上に迎え入れる。かわいいなあ。熱い息が漏れるのを他人事みたいに聞きながら、相手のシャツに指を引っかけた。
 ふわふわ浮かび上がるみたいに気分がいいのに、底の方で良心が願望を呵責する。これじゃあ彼のことを言えない。私は言い返さなかった。もっとほしい、と口に出そうにもふさがっているものだから、私はかれの唇に吸いつく。思っていた通りに大きな手のひらが脇腹から腰、背中をなぞってから、ぐっと手の主の方へ私の身体を引き寄せた。背後の壁にやさしく後頭部が接地する。離れた唇の間で私が笑うと、たまらないといった風にまた強く抱きしめられた。首筋にかかるかれの息が熱い。

 せわしないキスの応酬の隙に、やましいことを少しだけ考えた。──腰が砕けそうな彼とのキスを、それを受け取っていたのが私だけじゃないなら、それなら。
 ………誰かに話すにははばかられるような。そのくらいの罪悪感はあって然るべきだ。もしかしたら一夫多妻方式でもこれまで通りうまくやれるかもしれないわけだし。

「ずるいです、そんなのは」

 幼げな意地の悪い顔でかれが笑う。私は言葉に出さずに、ずるくなりたい、と思って、かれの目を見た。笑っているのに悩ましくて、年下のかれがそこだけ変に大人びた顔をできることに驚いてしまう。もう一度キスをするとかれは笑うのを辛そうにして、ずるいです、とくり返した。
 ずるくなりたいのだ。あの人みたいに狡猾に立ち回って、最終的に賢明と呼べる判断をしたい。

「両立なんて諦めてください」

 抱きしめられながら、私は赤葦くんの襟足を梳いていた。ちらちらと頼りなく光るみたいに、かれは一言ごと、一呼吸置くごとに、印象が変わる。かれはしっかりした子で、いつもなんとなく呆れたような顔をしている。私の知っている赤葦くんはたいてい誰かのストッパー役だった。かれが、人をたまらなく苦しくさせるような目をするなんて知らなかった。

「あなたが好きです。それじゃだめですか」

 既に充分にずるいだんまりを貫いている私を力ずくで押し開くように言葉を重ねながら、一方で"お願い"をする体裁を崩すことができない。赤葦くんのそういう、抜け目ないくせに変に育ちのよさを感じさせるところがたまらなくずるい。

 繰り返しささやかれる甘言に負けてしまったっていい。
 あの人にたくさん彼女がいるにしたって現代日本は一夫多妻制じゃないし。彼が誰かひとりを最終的に選ぶとして、私はそのひとりにはきっとなれない。渡りに船を得るように、私ひとりくらい逃げ出したっていいんじゃないか。
 そのために赤葦くんを利用するのはすごくかわいそうに思うけれど、こんな女に引っかかってしまったかれのことは本当に残念に思うけれど、……でもたったひとりの男の子として大切にしよう、きっと。



title 深爪
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