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お互いに大学の近くで一人暮らしをしていて、いつしか家を行き来するようになっていた。何のやりとりもなくただ本当にいつの間にか。
非常な私事とはいえ、松川といると妙に安心してしまって、不眠気味のときにも彼のそばではぐっすりと眠ることができたから。夏になると、一緒に寝るなんて暑苦しいな、と思ったので次第に彼の家に行かなくなった。彼も、私が行かなくなると私の家に来なくなった。
松川が何を考えているかさっぱりわからないのに、変に気を遣わなくていいところがとても心地よくて、彼に実際のところどう思われているかなんて深く考えてこなかったけれど、そうやって一度離れてみるとなんだかとても人に言えない妙な関係だったように思えて、私は少し冷静になった。松川は何も言わないけれど、きっと迷惑だったに違いない。

授業で鉢合わせることがあっても松川は態度を変えるようなことはなかった。隣の席に座って、眠たげに講義を聞いて、ときどき何か耳打ちしてくる。彼が耳の近くで、苗字、と呼ぶ度に、私だけが一緒に寝ていたことをふと思い出しているようだった。
バイトもサークルもあるし、本当は私だってそこそこ充実していて、そして疲れている。でも気付くとなんだか、眠れなくなっている。タイマーをつけた冷房が切れてもしっかりと目が冴えていてすこしも眠くならない。


8月の終わり。帰省から学校近くのアパートに戻ってきて3日。彼にメールをした。ラインじゃなくてメール。

──こっち戻ってきた?

彼からはたった一言。

──うん


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夜の11時過ぎ。狭い家中の戸締りをして財布と携帯だけ持って、彼の家へ行った。

「急に来てごめん」

玄関先で彼はほんの少し驚いたように目を剥いて、でも私を中に入れてくれた。
まだ夏だし暑苦しいけど、一緒に寝てもいい?
そうやって言おうとした私の目の前で、彼はエアコンのリモコンを取って、ボタンを押し始めた。ピ、ピ、ピ、ピ、と連打に対してエアコンがいちいち応答する。そうすると、出てくる空気が急に容赦なく冷たくなった。彼の手の中のリモコンに、設定温度18度と出ていた。
松川が言う。

「寒いから、一緒に寝よっか」

私はただ黙ってひとつ、頷くだけでよかった。
高い背を屈めて薄い毛布に手をかけた松川が、私を見た。ベッドに近付いていくと、私の肩を彼がその長い腕に巻き込んでシーツの上に倒れ込んだ。
松川は何も言わない。驚きはしたものの私も声を立てなかった。身体中を抱きしめる彼の大きな身体があたたかい。付き合ってもいないのに彼の腕の中が心地よくて離れがたくなっている。まぶたを下ろしてしまうと、周囲の音も次第に遠のいていくようだった。さらさらと乾いた冷たい風が頭の後ろをさわる。肌寒い。

「さむい」

首元で、私を力いっぱい抱き込んだ彼が言った。うん、と一言頷いた私のくぐもった声を聞いた彼は、長い腕を改めて私の身体に絡め直した。
こうやってふたりで寝るとき、彼のその大きな身体に腕を回し返したことが一度もなかった。棒のようにまっすぐに身体を伸ばして彼の身体に身体を寄せている。好きとか嫌いとかいう考え方を飛び越えて、彼のそばは居心地がよかった。
本当は期待をしていた。何度か行き来をくり返す内に、徹底して何もないので、彼とはそういうことだと思って諦めた。
この上ない安心を感じながら、寝て起きて、どちらかが作った大したことない朝食を食べて学校に行く。妙なもので、彼を好きだと思ってしまってからの方が、その間の記憶があいまいだった。

「苗字、寝た?」

耳のすぐ近くで松川がささやく。応えようか迷っている間に、彼の手がゆらゆらと私の顔を撫で始めた。頬から目じりにかけてゆっくりと動く手が、指が、ときどきくちびるをかすめて通りすぎる。胸が苦しくて、うまく息ができない。深呼吸がしたい。

「寝ないの、松川」

目を開けてから、こんなに近くで松川の顔を見たのは初めてだと気付いた。

「いつも思ってたけど、この状況で大人しく寝てるほうがおかしいデショ、ふつう」

いつも、彼の顔を間近に見ることすらなく、すとんと安易に眠りに落ちていたことが嘘のようだ。
首の下で彼の腕が身じろいだ。衣擦れが耳たぶをかすめて、顔の左半分がかあっと熱くなっていく。なかったことになっていたはずの期待が、安心感や眠気を押しのけてしまった。肌寒い部屋の中で私の身体だけが発火しているみたいだ。私の出方をじっと待っている松川は、私の首の下に通した腕をなおもよじらせて、顔ではなくて髪を撫でる。
おかしいおかしいと思いながら甘んじてきたなら、彼も同罪だ。


「ねえ、キスしたい、すごく」


身体に絡まった腕が私たちの隙間をなくす。初めて自分からさわった松川の、猫背気味に丸まった肩や、服の上からでは大して主張のない胸板が分厚くて、死にそうにドキドキした。


「俺もう苗字の彼氏ですって言うね」


くちびるの間で彼が言う。何か言って返事をするのももどかしくて、私は彼の首に腕を回して引き寄せた。息が苦しい。身体が熱い。安心よりも今は圧倒的な、松川の存在感に打たれている。

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